月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「どうせオレは忘れちまうんだ(テント篇)」

マウントロブソンが目の前に見えてきた。それでも目的地のキャンプ場まではまだ三キロほどある。つまりあと一時間ほどは歩かなくてはいけない。

辿り着かないのではないかという不安はもうないが、力の限界が近いこともわかっている。トレイルは河原まで下り、僕は丸くて大きな石が転がる平地に溶け込みながら、それでも間近からははっきり識別できる人の痕跡を辿っていく。もう足がちゃんと上がっていないから、しょっちゅう石に躓いてしまう。

所々に石が積み上げてありケルン(道標)ができている。自然は自然のままに残さなくてはいけないので厳密には善くないのだが、人間、こんなところまで来ると、自分が来た証を残したくなるのだ。僕は「ケルンを作るのが証なら、崩すのもオレが来た証だ」と、手にしていたトレッキングポールの先で突き崩そうかと思った。でも、それもやめておいた。

川は湖へとつながった。これが目指していたバーグレイクだ。湖畔をあと二キロ歩けばゴールのバーグレイク・キャンプサイトだ。もうゆっくりしか進めないので、「もうちょい、もうちょい」と念じつつ、重たい体をちょっとずつ押すように往く。 ガリガリ君ソーダ味のように青いバーグレイクを右手に見つつ、大きな弧を描いていくと、湖面の向こうに、ミルフィーユ状に甘そうな雪が挟まった地層の山頂部を持つ、マウントロブソンの北壁が見えてくる。 時刻は午後四時頃。行動食は摂ってたけど、いい加減腹も減ったね。

目の前の道に、ウサギが跳ねてきた。僕に気付いて脇の木々の中へ逃げ込む。すると、ウサギがもう一匹出てきて、同じように逃げていく。「へぇー」と感心していると、さらにもう一匹。なんと、ウサギ三連発に迎えられて、ちょっといい気分で、やっと到着!

すでに数組のキャンパーらがテントを張って静かに時間を過ごしている。適度なプライバシーを保てる間隔を空けて、テント用のスペースが床に木で四角く囲ってある。僕は非難小屋に近く、水場(湖の脇の小川)にも近い場所を手早く選んだ。吟味している元気もない。とにかく早くテントを張って、ひと休みだ。

水辺で人がいるから、さすがに蚊が多い。テントを張るために屈んだ背中など、シャツにピッタリくっついた箇所なら布の上からでも刺してくる。 ちょっと雑だけど、とにかくテントを張り終えて中で荷物整理。テントの前室(雨除けシートの内側、居室の外側)にリスが迷い込んできて「アレッ?」という顔をしてすぐさま出て行く。なんて場所だ。ゆっくりしていっても僕は構わないんだぜ。

ほっとできたのも束の間、狭いテント内であぐらを組んで身じろぎするだけで、脚が攣ってしまう。呻き声を上げて、慌ててストレッチとマッサージ。かなり疲労度が高い。明日また同じ道を歩いて帰らないといけないのに……。

ひと休みして、改めて周囲を眺めてみると、信じられない景色だ。 まさに天国の一部。マウントロブソンの全貌が視界に捉えられ、その頂の左手には二本の氷河がへばりついている。氷河というのは、河が凍ったものではなくて、雪が降っては固まり、さらに降り積もっては固まるのを何十年、何百年も繰り返した結果の氷の堆積だ。 背後には深い緑の森林が、獣たちの世界と人間の許されたエリアとの境界を緩やかに示す。すぐそばには、かわいらしいログハウスの避難小屋がまるで地面から自然に生えてきたかのように建っている。

相変わらず天気は薄曇りだが、涼しくて、全てが、穏やかなのだ。

それにしても、天国の一部を目にするためには、地獄を経験しなくてはいけなかったなぁ。しんどかった。行動時間は八時間弱。

バンクーバーで用意したガスを使って、湯を沸かし、チキンラーメンを食べた。二つ食べられたけど、スープも全て飲まなくてはいけないから(捨てる場所などない)、やめておく。夜中におしっこ行くの嫌だから。残りの食糧は、熊対策のため全て小屋近くの鉄製ロッカーに入れることが義務付けられている。

片付け終えたと同時に雨が降ってきた。テントに入り、することもないので寝袋に入ってみる。雨除けシートを打つ雨音と、川のせせらぎを聞きながら、なんの抵抗もする間もなく眠りの世界に引き込まれていった。

寒さで目が覚めるのは、鉄道に続き、この旅で二度目だ。深夜〇時。テント内は気温九度。ダウンベストを脚に巻いても下半身の寒さをガマンし切れず、昨日履いていた汚れたジャージをまた履いて寝袋に入り直す。次に目覚めたのは四時半。気温は七度。

その日、僕は驚異的な回復を見せた。筋肉痛もないし、どこも痛まない。疲れも感じていない。すごいぞ。帰れるぞ。 朝陽を浴びて、川辺で体操なんかしてみる。マウントロブソンは朝焼けの空にはっきりと稜線を浮かび上がらせて、僕の気力と体力の充実を表すように光を反射して輝いていた。

朝食は再びチキンラーメン。サプリでビタミンも補給。まだ誰も起きていない早朝にテントを片付け始めて、荷物をまとめて八時前には出発だ。

バーグレイク湖畔を引き返しながら、マウントロブソンに手を合わせて別れの挨拶。 歩いていると時折、ドドーン! ガラガラガラと音がする。雷かと思って空を仰ぐがそうではない。氷河の一部が崩落する音なのだ。砕けた氷塊は、白鳥のように湖面に浮かび、静かに流れていく。

トレイル上に、昨日は見なかった動物の大きな糞がある。かなりホヤホヤだ。熊じゃなければいいなと思って仔細に見てみると、草の繊維が残されているのが分かる。レンジャーの馬なのか、熊なのか。

元気に出発したものの、復路もやはり後半はかなり大変だった。一キロ一キロ減らしていくことだけ考えて、最後数マイルは、白人のおばあちゃん団体に追い抜かれ(世界中どこでも、女性は元気だ!)、家族連れに追い越され、フラフラになりながら足を引き摺るようにやっとトレイル入口まで戻った。復路は六時間半。

ありがとう、マウントロブソン! 素晴らしい経験をさせてもらいました。入口付近に設置してある「トレイル管理費寄付ボックス」に奮発して十カナダドルを差し入れた。気持ちだ、取っとけぃ!

レンタカーに乗って、インフォセンターまで戻ってみる。昨日見た間抜けな動物を、金髪のおねえさんに訊いてみなくては。 僕が描いた拙いスケッチを見せてみると、おねえさんは即座に

  • 「ポーキュパイン!」
  • と聞き慣れない単語を口にした。
  • 「ポキ……?」
  • と、僕が発音しあぐねていると、奥から動物図鑑を持ってきて写真を指差した。そう、まさにそれでした。ポーキュパインっていうのね。スペルは"porcupine"。ヤマアラシのことでした。

レンタカーでジャスパーの町へ帰る途中、大雨に二度ほど遭遇した。ジャスパーの天気予報はずっと良くなかったから、トレイル上でも降られることは覚悟していたのだが、幸運なことにレインウェアを使うことはなかった。ジャスパーとトレイルがおよそ一〇〇キロも離れていて、山岳地帯ともなれば週間天気予報など意味を成さないのだろう。

これで、旅の目的のひとつは達成。ワン・ダウン。 ジャスパーの町で、たまらずステーキにかぶりついた。

翌日、再びVIA鉄道でバンクーバーまで戻ることに。列車を待つ間、ミュージシャンの男二人が、お客の前で歌い出した。モジャモジャの長髪を束ねたサングラスのギター男と、小柄なマンドリン男。ブルーグラス系の裏声を使ったコーラスがなんとも心地よく、この山の町の空気に合っていた。個人的な趣味にかかわらず、ここにいたお客の誰もが聞き入ってしまう澄んだ響きだったのだ。土地と、それに合う音楽というものが、日本にいると忘れがちなのだが、確かにあるのだ。

午後二時半出発の列車に乗り込むと、僕は来た時と同じ、車両の先頭の、ゴミ箱の前の、トイレの斜め向かいの席に座った。ここでも一度気に入ると繰り返し選ぶのだ。しかも、今度はこちらが北側だ。 列車が動き出すと、それを待っていたかのように、また強い雨が降り出した。テントに入ると雨が降る。車に乗ると雨が降る。そして鉄道でも。この旅は、天候には実にツイてるなぁ。

車窓を通して、もう一度マウントロブソンの雄姿を網膜に焼き付ける。 どの山も草原も湖も川も、あのトレイルのあらゆるコーナーを、車窓を流れるどの雲も心に留めておきたいと思う。でも、残念ながら、どうせオレはここで見たほとんどのことなど忘れちまうのだ。

(つづく)