月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。2003年より書いていた月イチコラム「月刊ショータ http://monthly-shota.jp 」をhatenaに転載しました。そのため、一部お見苦しい点があることをご容赦ください。

「権威の正しい使い方」

僕が高校生の頃はインターネットなんかなかったし、自転車通学で電車も乗らなかったし、当然新聞も読まなかったから、本を買う時は常に書店での「ジャケ買い」だった。

その後、本には賞というものがあるのを知って、ナントカ賞受賞と書いてあるものを優先的に手に取るようになる。全米図書賞とかアメリカ探偵作家クラブ賞とかピューリッツァー賞とか。自然と権威主義になっていったわけである。

やがて、自分の好きな作家というものが把握できるようになってきて、賞とは関係なく本を選べるようになったわけだが、やはり未知の作家の著作に手を出す際にはなにかの賞を受けているものから入ることが多い。最近ならコーマック・マッカーシーピューリッツァー賞受賞の『ザ・ロード』を読んでから、全米図書賞の『すべての美しい馬』、そして『平原の町』『越境』の国境三部作と進んだように。興味ない人、すみません。

私見では、日本の小説なら「吉川英治文学新人賞」を受けた作品はほとんど間違いないと思っている。エンタテインメント小説として読み応えのある傑作が毎回選ばれている。

このように、賞というのは「何から読んだらいいのかわからない人に、初めのきっかけを与える役割」としては非常にうまく機能していると思う。 アメリカのアカデミー賞グラミー賞も毎年世界的な注目を浴びて、極東に住んでる僕みたいな人間ですら、「アカデミー作品賞を受けた作品はとりあえず観ておこうかな」とか思うくらいだ。

しかし残念なことに、日本には権威のある映画賞、音楽賞というものがない。いや、あるんだけど、注目されていない。つまり権威がない。権威とはここでは、議論の余地なく信頼できる価値である。

だって、去年の日本アカデミー賞の最優秀作品賞を知ってますか? 東京国際映画祭のグランプリ作品を知っていますか? ちなみに前者は「沈まぬ太陽」で、後者はニル・ベルグマン監督「僕の心の奥の文法」だそうだ。知らん。すまん。知らん。 「沈まぬ太陽」は知ってたが特に観ておこうとも思わなかった。

音楽界はさらに深刻だ。この国には「日本レコード大賞」とか「日本有線大賞」とか「日本ゴールドディスク大賞」という賞があるそうだが、みなさん、大して気にしてないでしょう。

中でも「最も有名」とされているレコード大賞っていうものの体たらくたるや酷いもので、まず「本番の番組に出演できないアーティストは大賞にならない」不文律があり、都合のいいアーティストしか選ばれないという。 最近では一部のレコード会社に賞が集中する傾向があるというが、まぁそれはそういうこともありえるだろうから僕は批判するつもりはない(オールスターゲーム阪神の選手ばかりになることもあるようなものか)。

しかし、レコード大賞において最悪なのは審査方法が不透明な点に尽きる。

審査委員の人らが相談して決めるらしいのだが、それだったらブラックボックスに突っ込んでガラガラポンなわけで、結果的に外部の「有力者」の意見に影響された(というか強制された)としか思えない受賞者や候補者が選出されている。 みんな知らないと思うから書いておくと、二〇一〇年の大賞受賞者は三年連続でエグザイル、最優秀新人賞は、えーと誰だったっけな(検索して調べる)、スマイレージ。はい、誰やねん。知らん。すまん。知らん(反省なし)。 これ以上は検索して調べる気も起こらないので、スマイレージは放っておいて先に進む。ほんまに今初めて聞いた名前だ。

加えて、今年の最優秀歌唱賞が近藤真彦氏らしいのだが、なんか歌ってたの? 別にマッチは嫌いではないですよ。ジャニーズの中では敬意を払われていいタレントだと思うけど、なんにせよ最優秀な歌唱能力なり技術ではなかろうということは疑いないでしょうに。 もっと言えば、週刊誌が指摘していたように、今年の売上ベストテンをAKB48とともに独占した嵐に大賞をあげない代わりに先輩であるマッチのこの賞の受賞で手を打ったと思われても仕方ないだろう。

米国のアカデミー賞映画芸術科学アカデミー会員の投票によって選ばれるそうだ(日本アカデミー賞も似たような方式)。かといってこれが最良で最も公正な方法かどうかはわからない。 一定水準以上の作品が毎年選出されているとは思えるが、神様が選ぶわけではなく、人間がすることだから必ず異論は出るし、全員納得の受賞などむしろ気色悪いかもしれない。 そういう意味では、あらゆる賞が胡散臭いとも言える。

正直、漫才のM-1グランプリだって、不自然だとは思いますよ。いくら笑い飯がおもしろいからって、二~四千組がエントリーする中で、九年連続で決勝に上がれたり、二年連続で前年勝者が敗者復活で上がってきたり、毎回実力的には「?」と思える人気コンビが決勝に来てたり(二〇一〇年でいえばピース、〇九年はハリセンボン)といった番組を盛り上げる演出と感じられる部分は多々ある。

本当に公正におもしろいもの(予選で受けた者)を選んだら、二〇一〇年のスリムクラブや〇七年のサンドウィッチマンのように無名に近い人々ばかりが大半を占めてしまうこともありえたわけだ。

だけどなんだかんだで毎回なんとなく納得度の高い閉幕を迎えてきたのは、実力が拮抗していて「誰が獲ってもおかしくない」状況での戦いが展開されていたからだ。出来すぎにも思える笑い飯の最終大会での優勝も、「おかしくはない」程度には合理的な結果だ。

レコード大賞はそこがおかしいから、おかしいのである。そして、おかしいから、権威が、つまり価値が、ないのである。

結局我々下々の民には内幕は永遠にわからないわけだから、「おかしくはない」結論を出してさえもらえればいいわけだ。だって、おそらく知性のある人間の目で見れば、業界の力関係と賞は無縁ではいられないし、実力者の圧力もあるだろうし、オトナの事情も不可避だろうし、飲ます食わす抱かす、もしくはおフェラの一回や二回くらい取引されていても疑問はない。 現在最も組織として機能が低下してるテレビ局(TBS)が運営しているものだし。 あ、知性が「お」を付けさせたよ。

そないに興味もないレコ大に関して長々と書いてしまったのは、日本の音楽が心配だからだ。ミュージシャンという特殊能力を持った人たちを称えて、優れた作品、それこそ僕ら凡人はひれ伏したくなるようなドエライ楽曲を憲章して、盛り立てていかないと、先細る一方ではないか。 賞というとても便利な装置を活用して、リスナーを増やし、人とかかわる機会を増やし、権威を高めていかない手はないではないか。

結果的に損するのはミュージシャンや音楽業界であることは当然ながら、僕らリスナー、ミュージックラバーも大損なのだ。 だから、せっかくの健全な権威を貶めるような行為は犯罪的なのだ。現実に「レコ大受賞作品なら買ってみよう」となっていないのだから、全く機能していないじゃないか。 少なくとも僕は、現在のレコ大に出てくるような楽曲でいい音楽を楽しみたい欲求は満足させられない。

最後に、敬愛する浜田省吾氏の言葉を(※註)。 「音楽業界の人間が、『誰が何週連続一位だとか、何百万枚売った』とか数字の話ばかりするようになって、『あの人は新しい音を作った』とか『あの曲は音楽を変えた』といった“音楽の話”をしなくなった」

ズシッと心にきますな。 (了)

※註釈:テレビ番組で言っていたことを記憶で書いたので、正確ではないけど主旨はこうでした。