月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「地元で生きて、地元で死んでいく彼らへ」

年末に立て続けに同窓会があって、なんだか形容しがたい不思議な気持ちでこれを書いております。月曜日に中学の同窓会、火曜日には高校の同窓会。後者は幹事団が半年以上も準備して実現してくれた大規模なもので、それは素晴らしいイベントになった。
でも、今回は前者である中学の同窓会について書こうと思う。僕が生まれ育った町というのは東京都練馬区の住宅街で、東京以外の人にはわかりにくいであろうが、閑静でもない、かといって寂れてもいない住宅地である。商店街があって、小さな公園がそこここにあって、神社があって、ネコが歩いている、ごく普通の町だ。
ここ最近は、駅前が再開発されて、「本屋が潰れ、パチンコ屋が巨大化する」という下流化の進行が認められるが、それもよほど条例が厳しい地域以外なら日本全体で起こっている由々しき潮流のひとつに過ぎない。僕の力では何もできないので、「少なくとも僕は行かない」という選択をする以外にない。
僕はそういう町の公立中学を出た。中学、高校、大学、会社と、階段を上るごとに付き合う人間は同一化されていく現象を、今回実感させられた。つまり、高校は同じ程度の学力の者が入ってくるし、大学はさらに同じ選考を通過した者の集まりで、会社に至っては知識レベルや興味の範囲、人生への考え方までもある共通項を持った人間が集約されている。
だから、人は益々同じような人種としか付き合わなくなっていくのだが、公立の小学校、中学校というのは「偶然同じ地域に住んでいる」という以外、なんの選考もかけられていない(厳密には身体や知能検査などがあるのだろうが)者同士が一緒くたに教室に入れられるから実に雑多な人種と(あえて人種という言葉を使う)出会うことができる。
そこが公立学校のいいところで、醍醐味ともいえる部分だ。幼稚園や小学校から私立に入って、そのままエスカレーター式なんてのは、社会の上の方の表面でプカプカ浮いているだけの経験としか、僕には思えない。スープを底の方から掻き混ぜてみると、むせ返るような辛いのやらしょっぱいのやら、得体の知れない物体が上がってきて、でもそれらの一緒くたこそが、あとを引く本来の味なのである。
中卒で防水工の職人をしている、当時パンチパーマに短ラン、ドカンズボンだったM君。彼は京都奈良の修学旅行前に先生から「標準の制服を着るか、参加しないか」という選択を求められ「じゃあ行かねえよ」の一言で、思い出作りを放棄した。今は二児のパパ。
僕が最後に会ったのは高一の夏で、一緒に初めてのアルバイトをしたY君。人の触れられたくない部分を執拗に小突き回す習性は全く変わっていなかった。独身。彼も防水工をしている。防水工というのは、住宅などの建造物に防水処理を施す専門の仕事である。
中二の時に転入してきたN君。転校生の宿命として、ツッパリ君(当時ヤンキーという呼称は東京では一般的でなかった)らの洗礼を受け泣いてしまった彼も、立派に仲間入りを果たし、……防水工をしている。
僕は小学校から一緒だったO君にも会いたかったのだが、その日は不参加。彼は中三の時、英語の授業で習った「スタンド・バイ・ミー」の曲が気に入り、僕に歌詞を紙に書いて教えてくれと言ってきた。僕もその歌が好きで歌詞は暗記していたので「When the night has come……」で始まる歌詞全文を書いてやると、「英語だと読めないから、カタカナで書いてくれ」と言ってきた。
ウェンザナイト ハズカム……。
彼はたいそう喜んで、その日いつまでも「ウンヌナイ!」「ウンヌナイ!」とベン・E・キングのモノマネで出だしのみを歌っていた。そんな彼は中学浪人をして、一年遅れて高校進学。その後中退したのしないのという噂だけ聞いていた。今は、防水工をしているという。彼らは皆、会社は違うが現場で会う仲間だという。
練馬では昨今、水が漏れて漏れて大変なのだろうか。
ツッパリのリーダー格だったI君が、僕をさん付けで呼んでくる。仕事帰りだった彼はスーツを着てネクタイをしている。彼は高校中退後、「函館に女と駆け落ちした」と聞いていた。その日確かめてみたら、事実だった。
「そうそう、高校三日で辞めてさ。暴れちゃったのよ、うん。でさ、せっかく親に高校入れてもらったのに、居られないじゃん。そん時は女がいたからさ、函館に行ったのよ。でも、中卒で仕事なんか無いよね。だから、屋根に雪止めを付ける仕事してさ、その後東北の方でホテルが出来るからそっちに来ないかって言われて五年くらいいたのかな、うん……」
穏やかに話す彼の目から、僕は目が逸らせなかった。なぜか二重瞼になっていたが、触れようとも思わなかった。そこを前述のY君がしつこく突いていた。やめたれ、やめたれ。そういうお前はあの頃気にしてた包茎手術はしたのか。
I君がお店の人に「ウーロン茶割りか、緑茶割りか、なんかそんなの」と注文しているから、僕は「そんなテキトーでいいの?」と心配してしまった。値段が違うかもしれないし、お店の人も困るだろう。
「うん、大丈夫。この店、中学の頃から来てるから」
そうか。納得。
「相変わらずいい声ね」と女性に褒められ「じゃカラオケ行こか」と間髪入れずに言うM君や、まさかあのI君が人の焼酎水割りを作ってくれてる横顔を見ながら、僕は正直、「カッコイイな」と思った。
羨ましくはないが、労わりたい気分になったし、お互いがんばっていこーゼと言いたかった。
これこそ、同窓会の魅力であり、魔力か。
女性は四人が皆子持ちで、それぞれ精一杯背伸びしながら生きている。さっき公立中学に行ってよかったと同意していたくせに、自分の子供をインターナショナル幼稚園に通わせてたヤツもいる。
誰が誰と結婚してセレブ生活しているとか、子供をどこそこの中学に入れたいとか、アトピーとかは第一子に出やすいから母乳にこだわる必要はないとか、ヤクルトレディはまた買い取りにシステムが戻ったとか、あんたが付き合ってた誰々ちゃんは大地主の娘でラブホテルなんかも経営してたとか、ダンナがこれから麻雀に行くらしいから、私が代わりに家に帰らなきゃとか、なんとかかんとかで夜は深けていった……。
彼らは、おそらく地元で生まれて、地元で生きて、そして地元で死んでいく。中学はおろか、小学校や幼稚園から知っている友人たちと一緒に飲んで、騒いで、年をとっていくのだろう。ちゃんとモノをつくって、正直なお金を稼いで、子供を学校に入れて、でもやっぱりその子も中退しちゃったりなんかしながら。
それはそれで素晴らしい生き方で、むしろその方が「普通」のことかもしれないし、そういうささやかな生活が日本のどこの町でも成り立つような、そして繰り返されていくような仕組みが続くといいな、と僕は思った次第なのだ。
人生は選択の連続で、正解はひとつじゃない。たまには不正解も混じっているかもしれないけど、正解のかたちは多ければ多いほどいい。時代は大きく移ろいで、何もかも崖の先端まで追い詰められて、あとは地面ごと瓦解していくだけのような認識を示す言説が、メディアを通して送られてくる。でも、もしかしたらそうではない。いや、たぶん、きっと、そんなことはないのではないか。
そういう危機を煽る発言さえも、発信者が自身の生活を守るために味付けをしているということを考慮に入れなければいけないのではないだろうか。
きたる新しい一年も、皆様のもとに小さな幸福が訪れますように。
(了)