月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「衆院解散前に先手マニフェスト(続き)」

前回に引き続き、マニフェストをお送りします。
【声出し禁止】
これを見て、どうせスケベな話だろうと想像された方は、お間違いです。
先日、うちのおかんがドイツに旅行に行った。おかんが泊めてもらった同級生の旦那さんがドイツ人で、元々はシェフ、その後航空会社のパーサー、今は早期引退して、奥様と二人暮らしという人だった。娘は独立、結婚して近所に住んでいる。
だから、日々、庭で摘み取った野菜やハーブを使って料理を作り、野山を散歩したりして暮らしているという。
なんやねん、その生活は! なんちゅう、羨ましくていてもたってもいられなくなって、しまいには腹立ってくる生活やねん。
その旅行の写真を見せてもらって、僕は少なからずショックを受けた。ドイツの田舎ではあったが、どこを切り取っても絵葉書になるのではないか、というくらい景色が美しいのである。家々のそこはかとない統一感。建造物と自然との調和。そこで営まれる静かで、余裕に溢れた人生。
僕は訪れたことはないが、ドイツも工業国だと聞いていた。第二次世界大戦で敗れた後、目覚ましい発展を遂げた点も日本と共通していると聞いていた。それなのに、それなのに、この違いたるや、一体どういうことだ。聞いてないぞー!
この違いは一体何なのか、写真をよく見て気付いたことは、まず看板というものがない。
例えば肉屋さんの店舗でも、壁面の端っこになんかドイツ語で表記してあるのがおそらく「肉屋」なのか「肉の○○」で、その他の広告的文言は一切ない。というかまぁ、見たら肉を売っているのだから、疑うべくもなく肉屋なのだ。
その他の町並みの写真にも、看板が一切ない。それに比べ、我が国の風景ときたら……。特に、僕が生活している大阪ときたら、看板だらけも甚だしい。有名な、道頓堀のネオン看板群はもはや芸術の域に達しているとの見方もできるが、何年住んでも、あの場所に立つと猥雑さと喧しさに圧倒される。
そらぁ、庭のハーブを摘んで自家製パンと、仔牛のグリルのラタトゥイユ添え、などという生活とはほど遠い。
テレビで見た香港の風景も、日本の繁華街にそっくりで、もはやこれはアジア人としての遺伝子に深く深〜く刻み込まれたセンス、としか言いようがないのではないかと思う。日本も香港もソウルも、都市開発においてお互いを参考にした、というかマネたつもりなどさらさらないのに、ここまで似ている。これはセンスという、抗い難い、不可避な力によって作り出された結果としか考えにくいのではないか。
僕は広告会社に勤めていて、世の中には広告看板というものもあるわけだから、あまり大きな声では言えないが、この、街の看板攻勢に深く関わっているのは、悪しき資本主義と日本人の雰囲気重視の性癖である。
ドイツだって資本主義なのに、どのように社会が成り立っているのか想像もできないが、日本においては、広告をバンバン打つことによって広告会社の商売が発生し、消費者も購買意欲が掻き立てられ、結果、広告主も売上が上がり、それでなんとか生活が成り立っている。なんで誰もがそこまでギリギリを強いられ、汲々としているのかわからないし、どっかで誰か黒幕がゴッソーっと利潤を横取りして「ワッハッハー」しているという疑いすらかけたくなるが、とにかく現状はそうだ。だから、看板も必要ということになっている。
消費不振が深刻化しつつあるとのことで、百貨店の方が「節約志向が強まり、必要最低限のモノしか買わなくなった」と言っている。しかし、本来、それがあるべき姿ではないのだろうか。百貨店の方の主張は、裏を返せば「人々が不要なモノまで過剰に買い続けないと、この社会の経済は成り立たない」と言っているわけだ。それがいかにおかしいことかは誰でもわかるはずである。
以上が悪しき資本主義の構造問題。続いて、日本人の雰囲気重視の特性についてお話しするために、例えば条例で看板を一切禁止にしたとしよう。全て撤去して、街がスッキリして、なんならちょっとヨーロピアンな品性ある町並みに一歩近づいたとしよう。ふむふむ、なかなか静かではないか。
すると、この国では何が起こるか。
  • 「なんだか、活気がなくなった」
  • 「淋しくなって、商売に気合いが入らない」
  • 「雰囲気が良くなったって、お腹は膨れない」
といった意見が出てくるのである。こういうしょーもないことを言うオトナが必ず現れる。
「活気」「気合い」「雰囲気」といった、外国人にどう説明していいのか全くわからないような、それでいて日本人が大切にしている言葉たち。実体は無いし、日本語でだってうまく説明できないのに、当然のようにその重要性は認められているものごと。
僕が小学生の頃、中学校の前を通りがかると、野球部のおにいさんたちがキャッチボールをしては、
  • 「ウィ〜」
  • 「オィ〜」
という文字で表記しづらい声を出し合っていたものだ。僕には、あれは何と言っていて、どういう意味があるのか不思議だった。
「あのー、練習中すみません。それはなんと言ってるのですか?」
と質問しても、邪魔者扱いされるか、ちゃんと答えられる人はいなかったろう。
その謎は中学に行っても、高校に入っても、解けることはなかった。
しかし、よーするに声出しとは、それら「活気」「気合い」「雰囲気」発生法として、日本特有に行われているのではないだろうか。実際は知らんが、おそらく、いやほぼ確実に、メジャーリーガーは「ウィ〜」「オィ〜」言いながら練習はしていない。ということは、野球の上達には無関係なのに、日本人が思うところの「活気」「気合い」「雰囲気」の三点セットの発生(知覚)のために行われているのだ。
そういう曖昧な「空気感」を後生大事にする限り、看板も消えることはないだろう。
よって、看板をなくすためには、まず声出し禁止から始めてみて、しばらく様子を見るのが良いと思う。日本人が精神論の呪縛から解放されると、ビジネスにおける過労死やスポーツにおける無意味なシゴキもなくなり(しかし効果は上がり)、実質的で贅肉のない社会へと転換されるだろう。
少なくとも僕はそれを望む。
問題は、その実現にはかなりの「気合い」が必要であろうことだ。
(了)