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月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。2003年より書いていた月イチコラム「月刊ショータ http://monthly-shota.jp 」をhatenaに転載しました。そのため、一部お見苦しい点があることをご容赦ください。

「衆院解散前に先手マニフェスト」

column
政治のことはよくわからんし、経済のことも興味ないので、勝手なことばかり言わせてもらうが、まぁオバハン議員の「台所感覚」よりはマシだろうと思うので、僕のマニフェストにお付き合いください。別に、将来立候補とかするつもりはありません。
  • 【所得は十億円を限度とする】
常々、周囲の人に話しているのだが(このコラムにも以前書きました)、だ〜れも賛同してくれないのが不思議である。みんなそんなにお金がほしいのだろうか。もしくは、いつか自分がそれ以上に稼げるという希望を持っているから、賛同してくれないのだろうか。言っておくが、そんなことは我々には絶対に起きないから、安心して僕について来てほしい。
我が国において、お金持ちになる第一の条件は、「お金持ちの家に生まれる」ことである。僕たちは自由の国に生まれたと思い込んでいるが、実はそうでもなかったりするのだ。お金持ちの子はお金持ちに、ビンボー人の子はビンボーになるシステムなのである。社会的流動性(人が一生のうちに階層を飛び越えて出世したり没落したりすること)の乏しい社会であり、ここ十年で益々その傾向を強めていることは周知の事実である。
言っておくが、貧乏の出でも野球選手になればお金持ちとか、そういう事例は、黒人はボクサーかラッパーにでもならないと階層を打破できない、という構図にそっくりなのだ。
で、十億円である。生涯所得が十億円に達した時点で、「ごくろうさまでした」ということで「ロン!」である。人生上がり、で、それ以上の稼ぎについては全て政府が譲り受け(没収とは言わない)社会保険庁みたいにではなく、ちゃんと、運用したり社会福祉に還流させたりみんなの(特に、抗えない悪条件のために生活が困難な人々の)幸せのために使う。
まぁ一種の社会主義だが、ロンするために競争がある。そして、ロンした人にはちゃんと誇れるような見返りを与える。具体的には未定。メダルや盾のようなプライドをくすぐるようなものでもいいし、伯爵や男爵のような称号もいいだろう。 なんならパチンコ屋の「ただ今フィーバー中」の札ように、玄関先にスコッと札を挿してあげてもいい。
「人生、フィーバー中」とか。これなら安上がりでいい。
僕のハグだけにすればさらに安上がりだ。
大体、人生を満足に過ごすために十億円以上のお金は不必要なのだ。いや、必要か不必要かは個人の判断によって分かれるという意見もあろう。だからこそ、政府である僕が決めたる。
「不必要である」
ほしいかどうかは個人の勝手。でも必要かどうかなら、「不必要」!
これがこれからを生きる人のための、エコな考え方であると思う。エコと言っておけば誰も反論できないだろうし、そういうことにしておこう。
ポルシェやベントレーのような高級外車を何台も所有する必要などないし、お手伝いさんや庭師を常駐させなくてはいけないような豪邸も必要ないし、エビアンで風呂を沸かす必要もないし、私費で世界の格闘家を集めて最強決定戦を開催する必要もなし!
ホームランが打てるからといって、年に二十億も必要なし、働く人を競走馬の如く扱ってお金を賭けるようなヤツに大金の見返りは必要なし。
やっとこう言う人が現れた、と思ったのが俳優のキーファー・サザーランド
シネマトゥデイ」のニュースによると:
  • 「24」のキーファー・サザーランド、「おれも含めて俳優の給料は高すぎる」
  • (中略)キーファーは「この業界で発生する金額はあまりにも高過ぎる」と言い、視聴率、興行収入を高めることができる俳優を高額な出演料で称賛するやり方も間違っているという。「社会の本当のスターは医者、教師、消防士や警察官だ」と付け加え、こういう分野にこそ金が流れるべきだと考えているようだ。
  • (二〇〇八年八月二十七日)
とのこと。
あー、もうその通りです。
利益を再投資して新たな何かを生み出す企業や団体ではなく、個人が喰うのにそんな大金が必要なわけがあるまい。ちなみに僕のマニフェストでは十億円の中から遺産相続は認めるが、それ以上は子孫が受け継ぐこともできない。個人は個人でがんばる。十億円を目指してがんばる。
上限が十億で適切かどうかは、その時の経済状況を鑑みて都度、見直すとしよう。誰がって、僕が。
反論をする人の中には「ハリウッドスターのような大金持ちは、よく慈善団体への寄付をするからいいんじゃないの?」と言うが、であればなおさら僕に票を投じなくてはいけないのではないのか。
僕は、「であるから、政府が代わりにしてあげる」と言っているのだ。同じことだ。わかったら目を覚ませ。
一見自由がないように聞こえるかもしれない。ある意味その通り。僕は自由だなんて一言も言っていない。
なんだか教祖のような言い分になってきた。
浄財? いや、社会貢献である。名誉である。
  • 【ラブソングには課税を】
アメリカという国家は嫌いなのに、アメリカの人や文化からは学ぶべきところがあると思っている僕であるが、先日「マイ・シボレー」というカントリーソングを聴いて心打たれた。Phil Vassarという歌手の歌だが、その名の通り、シボレーの自動車について歌っている。初めて自動車を手にした感動と、金曜の晩に友人たちと乗り回して遊んだり、ドライブインシアターでデートした青春の思い出をエモーショナルな旋律に乗せて歌っている。
カントリーミュージックには自動車に関する歌が散見される。Alan Jacksonの「マーキュリー・ブルース」、「ドライブ」(註1)、Jeff Carsonの「ザ・カー」(註2)、Joe Diffieの「ジョンディア・グリーン」(註3)などがそうだ。
車を通して家族愛とか青春とかを歌っているわけだが、思えば、日本においていくらトヨタや日産が経済的な躍進をしたとしても、それをポップソングにして歌おうということになるだろうか。タイアップとかのコマーシャリズム抜きにして、純粋に特定のメーカーの自動車を題材に、心を打つ歌が作られるものだろうか。
僕はそこにアメリカの鷹揚さというか、かの資本主義大国に残存した純朴さを見い出し、微笑ましさと一種の憧憬を覚えるのだ。
この世には歌うに値するものが無数にある。なのに、日本で聴こえてくる歌はラブソングばかり。僕は若い頃よりずっと疑問に思ってきたのだが、恋愛のような脆弱な関係ばかりがなぜもてはやされるのだろう。恋愛至上主義に商業主義が結びついた、この醜悪さというのは一体なんだろう……。
というわけで、ラブソングには課税する。「くだらないものには税をかけろ」というのが定石だ。酒、タバコがそうだろう。
自動車重量税というのがあるが、自動車の歌はもちろん非課税だ。ラブソングには、その陳腐さによって税率を変えるとしよう。
誰が決めるかって? だから、僕だ、僕。
もっと家族愛や、友情の名曲が作られるようになって、恋愛、つまりセックスばかりが全てではないという風潮が醸成されるとよい。セックスは僕が担当する。
速報!
青山テルマがお経のように唱えるあの歌は、シングル一枚、なんと、七二〇〇円になりました(註4)。
とり急ぎ、ご報告まで。
(つづく)
  • 註1:「ドライブ」は、歌詞の中に六十四年製フォードが出てくる。アラン・ジャクソンのアルバム「DRIVE」に収録。ちなみに「マイ・シボレー」に出てくるシボレーも六十四年製。その年には何かあるのだろうか……。
  • 註2:「ザ・カー」はマスタングの歌である。亡父が遺してくれた車に乗って父を憶うという、父子愛の感動的な曲。アルバム「JEFF CARSON」に収録。
  • 註3:ジョンディアは農耕機器メーカー。日本ではヤンマーが販売代理。ジョー・デフィーの歌はアルバム「HONKY TONK ATTITUDE」に収録。
  • 註4:元々は一二〇〇円のところ、六千円の加算。四千円がラブソング税で、二千円が「どこにも盛り上がりがないことに対する罰金」である。