月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「ヒミツの公式」

そりゃ、ワタクシだって、若くてキレイな女性が好きなのだが、若くてキレイなだけの女性は嫌い、という相反する気持ちがあり、僕は日々、ほぼ関わりもないのに勝手に苦しみながら生きている。
若くてキレイな女性が好きなことについては、大概の方々のご理解をいただけるはずである。そして、だからこそ、若くてキレイじゃないと腹が立つ瞬間についても。
これはそーゆーお店とかじゃなくて、たとえばテレビでフィギュアスケートを目にするとしよう。僕はそもそもフィギュアスケートなどというものが、ショウではなく、競技として成立していること自体おかしいと思っているのだが、そこで目にする日本人選手がブスだったりすると、無性に腹が立って、恥ずかしい気持ちにすらなってしまう。ロシアやイタリアの美しい選手たちと、仮にも(技術とか表現力も包含した意味での)美しさを競うスポーツで、戦おうとしている、この日本人のブス。てめえ、何様のつもりでぃ! という気分になってしまうのだ。
オレの方が何様だっつーの。
あんなスポーツは幼少期から英才教育を受けた人間しか競技の場に立てないから、そのコも親に半ばやらされてきたのだろう。つまり、親バカの産物として、そこにいるわけだ。うちの子が一番かわいいと勘違いした親が、一攫千金を狙ってフィギュアスケートなんか始めさせたばかりに、全ての女の子が必ずしも美しくは育たないという冷たい現実にブチ当たり、越えがたい世界との壁を見せつけられることになるのだ。
見せつけられているのは、視聴者である僕たちである。
「お前なぁ、それで勝てると思ってるのか」と、ため息が漏れてしまう。「あなたが指す美しさとは相対的なもので、美しさの解釈のひとつでしかありません。本当の美しさというのは、個人の内面から沸き立つ……(以下略)」などという、くだらん議論は無視いたします。そりゃわかるし、なにも姿形だけではなく、オーラを含めての美の話だけどさ、美しさとはひとえに主観であって、なぜか共有可能な主観なのである。その「なぜか」な部分に美の神秘がある。
美に説明など必要ないのだ。ブスにも必要ない。以上。
ところが、人の心理とは複雑なもので、若くてキレイというだけでも、これまた腹が立つ。今さら、こんなことをどの口がぬかすねん、という感じだが、僕はこの国の外見至上主義、若さ至上主義が文化をダメにしていると考えている。若くてキレイというだけの理由で、人が動き、お金が動くから、本物の才能が育たない、正当な評価を与えられない。そして、若さもキレイさも人生の中では一瞬のものだから、その人自身もやがて消費されて使い捨てられていく。
この国における、歌手、俳優のモデル出身者の数は異常だ。ハリウッドで活躍する俳優のプロフィールを調べてみれば分かるが、歌手であり俳優などのクロスオーバーが許された一部の本当に才能に恵まれた人たちを除いては、大抵、演劇科を卒業していたり、演技アカデミーで学んでいる。つまり、演技を通して生計を立てたいから俳優になっているという、目的がはっきりと見える。
その点、日本の場合、モデルであれば=見た目が良ければ、俳優として受け容れられてしまい、演技者としての評価など二の次になってしまう。だから、演じられない俳優、歌えない歌手なんて、意味のわからない人たちがのさばっている。
構造的には、そういういわゆる芸能人とかタレントとか呼ばれる人たちは、集金装置としての役割が存在意義の大きな部分を占めていて、文化活動に携わる人間とは到底呼べない。それも一つの能力と言われればそれまでだが、その一人を通じて、音楽、テレビ、映画、出版などなどの文化領域からお金を吸い上げるシステム。そこでは、いい音楽を作ろうとか、いい映画を撮ろうという気概はないがしろである。
なぜ俳優がCDを出さなくてはいけないのか。なぜアイドルが上手くもない演技で映画に出るだけでは飽き足らず、良くもない歌を歌い、挙句の果てにデビューの時点で武道館を満員にしてしまうのか。なぜしたいことを究める努力ではなく、あらゆるメディアからお金を回収する努力にばかりベクトルが向くのか。
僕には不思議で仕方ない。
そんな商売が成り立ってしまうことも不思議なのだが、これは、なぜ自民党の一党支配が覆らないのか、に近い。民主党が頼りないように、他に選択肢がない場合、人はアホになって現状を受け容れるか、投票に行かない(たとえば洋楽しか買わない)かのどちらかなのだ。
そのシステムの陰で、本当に評価に値する音楽家や俳優などの表現者が陽の目を見ることなく過小評価され続けている。 これは文化の損失と言えやしまいか。
僕はふと、どこかで見聞したスカトロ愛好家の公式を思い出した。女性の美しさと、そのウ○チの汚さの掛け算によって、興奮度が決定されるという、サイテーの公式だ(註1)。
つまり普通を0として、超美人なら+10とする。そして、そんなキレイな女性が、え、まさか、本当に、あんなすごいウ○チを……、で、+10とする。
+10×+10=+100点となる。興奮度100点満点である。
掛け算であることが鍵だ。だから、超ブスは−10である。そのブスがいくらすごいウ○チをしたところで……、−10×+10=−100点となり、先ほどの100点とは対極となってしまう。元々がマイナスであるために、どんなにがんばってみても(ふんばってみても)、がんばればがんばるほどマイナス度が高くなるだけなのだ。
マイナス×マイナスだと値がプラスになってしまうが、それはどうしたんだっけな? たぶん、ウ○チである時点で、愛好家にとっては「プラス」だから、そこにマイナスは発生しないのだと思う。……などと都合よく考えておこう。
とにかく、これは、美醜の組み合わせの妙に画期的な解釈を与えたと、僕は膝を打つ思いがした。これと似て、美しさと能力も掛け算によってその価値は決定される。
  • (ブスなフィギュアスケーターの場合)
  • −5の美しさ×+8の能力=−40点!
  • (歌唱力のないアイドルの場合)
  • +8の美しさ×−5の能力=−40点!
この勝負引き分け、となる。
でも、この場合は、どうしてもマイナス×マイナス=プラスの問題が生じて、公式が成り立たない。めっちゃブスで、なんの能力もないヤツが100点満点になってしまうのだ。これはこれで、見てみたい気はするが、たぶん腹が立つだけなので、現実にそぐわない。
やはりスカトロ専用に開発された公式だとみていい。
そんなわけで、若くてキレイじゃないと腹が立つくせに、若くてキレイなだけでも腹が立つ、このそんなに若くもないし、大してキレくもないこの僕。こんな人間がソープランドでし終わった後に、説教をするようなカスみたいな人間になるんだと思う。気を付けねば(※註2)。
いや、しかし、人前に出て拍手喝采を浴びる権利のある人間というのは、まぁ若くなくたっていいが、本当に才能があり、なおかつ美しくなければいけないと思うのだ。そういうほぼあり得ないような存在にこそ、我々凡人は拝跪し、お金だって払おうというものだ。
それ以外の人間は、きっちりお引き取り願う、そんな成熟した文化を国が推進しなくてはいけないはずなのである。ここは北朝鮮ではないから、国とは政府という意味ではない。大人が、ということだ。
(了)
※註1:僕にそういう趣味はありません。あくまで伝聞です、念のため。
※註2:広告屋なんてやっていると少なからず、そういうシステムに加担してしまうことがあり、遺憾です。せめて、ウンチもオシッコもするけど、エコに気をつけてますみたいな感じで、そぉっと働きます。