月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「シュールな世界観で書いたコラムさん」

会社勤めを始めて何年もたつが、今でも気分は十七才の頃の尖ったナイフのままである。仕事として人と付き合うようになると、コミュニケーションにおいて、言葉とは符号的意味合いが強いことがよくわかる。
その符号的を少し説明しておくと、我々は「+」を見て、「ゼロよりも多いってことだな」「何かが加えられるんだな」と理解する。
「ショータ+」と表記されていれば、「ショータはゼロよりいいのかな」、「ショータにさらに何か足されている状態なんだな」ということがなんとなく推し量れる。
これが「ショータ×」になると、意味が違ってきて「ショータはなんかわからんけどアカンのだな」ということになる。 ただの十字なのに、それが持つ意味は様々で、これがお互いに理解されるということは、発信者と受信者に共通の認識があり、意味が成り立っているということ。
社会人になるとこういう符号的な語法が多くなり、「こう言っておけば、意味は通じるから言っておく」というレベルのコミュニケーションが多用されるのだ。たとえば、「今日はパンパンで」と言えば、「私は今日忙しくて時間を作れません」ということになる。言う方は、まさか「今晩は娼婦として夜道で立ちんぼしなくちゃいけないから無理です」と受け取られるとは思っていない。
「お世話になってます」に対して、「いや、キミの世話をした覚えはない」とは返さないし、「よろしくお願いします」に「よろしくもよろしくないも、私が判断する立場にはないので、いっぺん上司に訊いてみます」とかも言わない。これらも符号である。
そこにオリジナリティは求められていない。
社会というのは、こういったシンボリズムの上に、言葉とか記号とか表情とか動作があって、お互いが理解しているからコミュニケーションが成り立っている。人間はそれから逃れることはできない。
突き詰めれば、言葉など、誰かが言ってたから使える、どこかで聞いたことあるから通じる、そういうものの集合である。
しかし、いわゆるサラリーマン語に無感覚になっていくことは、十七のままのピチピチの僕としてはどうも違和感がある。これは新入社員の頃から、変わらない気持ちなので、実際は三〇なんだけど、思い切って言っちゃおう。
入社当時、得意先や取引先の会社名に「さん」という敬称を付けることに抵抗があった。「……誰やねん」と思っていた。 だから、いつも、「○○(社名)の方々」とか「○○製品」などと言い換えて「○○さん」と言わなきゃいけない状況を回避していた。
いや〜、実に面倒くさい。面倒くさいから、いつの頃からか、社名に「さん」を付けるようになった。今では、なんかええことしたような気にすらなる。大人の階段をまた一歩上ってしまった。
どうして、会社という法人を擬人化するのだろう。日本独特の風習なんだろう。英語で団体名に「ミスター」を付けたら全く違う意味になる。
ニューヨークヤンキースの人が、読売巨人軍さんと会議しに来て、「ミスタージャイアンツとの交換トレードを検討しています」などと言ったら、読売側は「今さら長嶋さんあげてもなぁ」と当惑するだろう。
もっとも、「ミスター」を付けたらフェミニストが「なぜ男性と決め付けるのか!」などと怒りだし、「球団は男性名詞」「資生堂は女性名詞」などと、フランス語みたいになっちゃうのか。日産自動車ニッサンサンと呼ばれているのだろうか。JTBのグループ会社でJTBサン&サンというのがあるが、「サンアンドサンサン」と呼ばれて、実質「サンアンドサン、アーンドサン」にされているのかどうか。
敬称を付けてお互いを敬い合うというのは、日本的な美しさの感じられる風習でもあるから、これ以上言うまい。しかし、それにしても、「○○事業部さん」とか「広報さん」みたいに部署にまで付けなくてもいいのではないかい?
「社長さん」「部長さん」までは、まぁエライんだから「さん」付けしておいたらいいわ。それで本人が機嫌いいならそうしておけばいい。しかし、「社員さん」なんて何の価値もない。ましてや、昔バイトしてた時代に「バイトくん」と呼ばれて、なんだかわからないけど屈辱的だった。「おーい、バイトくーん! こっち来てくれ」とか、ひどい時は「こらー! バイトー!」なんて。
「バイトの方」と言えないのか。「……の方」、「……の人」で全て置き換え可能。
きっと、バイトという単語自体に見下された響きがあるのだろう。
「スタッフー!」だったら、別にムカつかない。少なくとも僕は。
何にでも「さん」を付けると、敬称という意味が薄れて、それ自体が慣例化して役割が不明確になる。しまいには「ここの社員食堂さんは、うまいっすか?」、「御社のエレベーターさん、閉まるの早いわー」に行き着くのだろうか。それは良識ある日本人として、食い止めたい。
世界観という表現も、使わないように注意している。デザインや映像の話をする時などに「真ん中の光がワーッと広がっていく世界観で……」というように使用される。きっと、いわゆる業界用語のひとつだと思う。
たぶん、間違っている。「……という世界の『感じ』」と言いたいのだろう。
「世界を観る見方」が世界観。「人生を観る見方」が人生観。この二つの語は、マクロとミクロとでも言おうか。世界とは象に支えられた平面の大陸によってできているのか、釈迦の掌の上で生かされているのか、神が七日間で創造したのか、支配と被支配の構造によって形作られてきたのか……、そういった世界への理解の仕方が世界観なのではないのか。僕は哲学は詳しくないから正確には説明できないけど、世界観ってのはそういうもんだと思っている。だいぶマクロだ。
一方、ミクロの方は、サヨナラだけが人生なのか、偶然は存在せず、全ては必然であるのか、赤い糸で結ばれた人を探しているのか、そういった個人の人生への解釈方法だと思っている。
「シュール」という言葉も、もはや説明できる人はいるのだろうか。往々にして独りよがりな、わかりにくい創作物に対して「シュールだ」という評価がされるが、それで何かが言えているのだろうか。
「超現実的」と簡単に説明することはできても、それでちゃんと置き換えできるのだろうか。
「シュールなコントだなぁ」=現実を飛び越えた、突飛なシチュエーションなのだろう。これくらいなら、まだ許せる。しかし、出来損ないのコントを十把一絡げに「シュール」と言っておけば済むのは違うと思う。
「シュールな世界観で」などというのは、きっと、それが何を表すのか論理的に説明できない人が使う表現だ。こういう意味を誰もよくわかってない単語は、何事かを言った感じを醸し出すから、便利なのだ。
「お前のチ○コ、シュールやなぁ」。どんなんだ、超現実的なチ○コってのは。皮がかぶってて、御本尊がわかりにくいのだろうか。そういうのは、「奥床しい」と言ってほしい。
色々小難しい御託を並べましたが、しかし、この場で、次のことだけはハッキリと言っておきたいので、しっかりと心に留めておいていただきたい。
「違ってたらゴメン!」
(了)