月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「何卒、ご理解ください」

尊敬する作家を挙げるなら、中島らも氏とチャック・パラニューク氏。好きな作家や、すごいなぁと思う人はたくさんいるが、尊敬となると、僕は東洋西洋で断然この二人を挙げる。

共通するのは「天才」ということ。しかも、変わり者という言葉では表現し尽くせないような奇人。らも氏は破滅型の天才という表現がぴったりだったが、結局本当に酒とクスリで身を滅ぼしてしまった。

トークショウも何回か観に行ったのだが、いつも半分自分の世界の膜に包まれたような雰囲気で、その内側から観客に、というか、誰にともなく話しているような感じであった。 一度は、京都で開かれた、らも氏と大槻ケンヂ氏とコピーライターの中畑貴志氏のトークショウ。当時会社に入って間もなかった僕は、なにか糧になる話が聞けるのかと期待して、会社を早退してまで(内緒で)大阪から京都に向かった。

奇妙な「トークショウ」で、途中で三人とも沈黙したまま二分くらい経つシーンすらあった。

らも氏は「咳止めシロップ」を一日一本飲み、それを十年間続けた話をしていた。ほぼ成り行きで司会進行役となっていた大槻ケンヂ氏が「飲むとどうなるんですか?」と訊くと、らも氏は、 「んー……。あのね……、なんか、こう……、トローンとするねん」 と答えた。

「普段から、充分トローンとしてるじゃないですか!」と大槻氏が、その場にいた全員を代弁して突っ込んでいた。

客は彼の独特ののーんびりしたペースにはめられてしまい、タイミングとか間が、おかしくて仕方がない。会場には「なにを言い出すのだろう」という一種不穏な空気が漂って、ほとんど緊張感とも呼んでいい。ボソボソと不明瞭に話すから、非常に聞き取りにくい。客は身を乗り出すようにして、彼の一言一言、一挙手一投足に集中する。

帰り道、「うーん、よくわからんかったが、とにかくすごかった……」と僕は頭をひねった。

麻薬所持で逮捕された後に出した初めの著作『牢屋でやせるダイエット』(青春出版社)のサイン会にも行った。「中島らも 復活サイン会」という看板の下に、彼は手錠をされた姿で現れた。強烈な皮肉を込めたユーモアである。 列に並んだ僕らは事前に名前を紙に書かされ、それが順番にらも氏の前に回されると、彼は無言で宛名とサインを書いていく。トレードマークのハットの下で、目だけがギョロギョロしていて、電車の中で会ったなら絶対に隣には座りたくないタイプの人間だ。ほぼ狂人の風貌。 客と目も合わさずに黙々とサイン会は進み、僕の番が来た。汚い字で「Ramo」とサインしてくれた後に、らも氏自ら手を差し出してきた。 僕は「あ、この人、客と握手するという意識はあるんだ……」と少し驚いたのを覚えている。

僕の先輩が一度仕事を一緒にしたことがあるそうだが、打合せ中も全く目を合わせず、話も理解されているのかどうか不安だったそうだ。 すると、マネージャーが「どうもすみません。今日はイッちゃってるんで……」と謝ったという。

どんな種類の人間なのだ、「イッちゃってるんで」で済む人ってのは。

しかし、著作自体は非常に細かいプロットで構成されていたり、博覧強記ぶりが発揮されていたり、何よりもロマンチックなのだ。 「ロマンチック」という言葉がすでにロマンチックではないことは承知している。 しかし、本来の意味でのロマンチックと言えばわかってもらえるだろうか、「この人はある種の理想を持って生きているのだなぁ」ということが行間から窺い知れるのだ。同時に、その理想を完全には達成できないことを知っているからこそ、アルコールやクスリの大量摂取に逃げてしまう弱さがある人なのだなぁ、と僕は勝手に解釈していた。人間の魅力というのは、その不完全さにある。

チャック・パラニューク氏は、デビッド・フィンチャー監督、ブラッド・ピット主演で映画化された「ファイトクラブ」の原作を書いて鮮烈なデビューをした作家だ。オレゴンの山奥で、テレビも雑誌も見ない生活をしているという。そして、本人もさることながら、父親の生い立ちが強烈だ。

父親の父親(チャックの祖父)がある日、妻(チャックの祖母)が断りなくミシンを買ったことに激昂してショットガンで撃ち殺した。 どんな動機やねん。 当時幼かったチャックの父親は、ベッドの下に隠れて難を逃れたが、祖父はその直後に銃口を咥えて、自分の頭を吹き飛ばした。 父親は数十年後、セックス中毒になり離婚を経験し、恋人とデートから帰ってきたところを、彼女の前夫に彼女もろとも撃ち殺された。

……めちゃくちゃである。B級映画のようだ。

めちゃくちゃと言えば、チャックの作品もそれ以上にはちゃめちゃである。これまでの著作においては、常に、暴力、宗教、混乱、セックス、分身、終焉などをテーマに書いてきている。『チョーク!』(早川書房)という小説には、こんな件がある。アナルビーズ(※)を肛門に突っ込んだら抜けなくなり、思い切り引っこ抜いたら、球だけが取れて腸内に残ってしまう。

※注釈:アナルビーズというのは、その名の通り、ボールがビーズ状に数珠繋ぎになっているもので、アヌス(肛門)に入れて、そして出して、楽しむ玩具である。通販で簡単に買えたりするので、ご興味のある方は一度試されてはいかがだろう。バイブレータのように「そのもの」の形状をしていないので、キッチンの壁にでも掛けておけば「あ、パスタを捏ねる器具かな」くらいにしか思われないこと請け合いである。

その後、生理現象として、うんちは溜まってくるが、球がつかえて排便することができない。まるで妊娠しているかのように腹が膨張してしまう。そして、レストランで海老かなんかを喉につかえさせた時に、助けに来た人に後ろからお腹をグイッグイッとされるのだ。 そう、ご想像の通り、結果は、うんちが小山のように……。

天才である。

しかし、この小説はこれがメインの物語ではない。タイトルの「チョーク」という言葉は「喉が詰まる」という意味だから、これが物語の核にある。この逸話に背景があり、続きがある。ほんの一部でしかないから、未読の人は、まぁそう言わずに読んでいただきたい。

彼ら天才に比して、普通の男である僕は、アルコールも程ほど、タバコは一日一箱という健康優良(?)ペース、クスリの経験は皆無、セックス中毒でもなく、オナニーすら「嗜む程度」。定職があり、ちゃんとボーナスも出た。

もしかしたら、僕が、竹刀が似合う「ベスト・シナイスト」の親父に男手ひとつで育てられたり、次々に男を連れ込む母親の喘ぎ声に耳を塞いで布団にもぐった幼少時代の微かな記憶に苛まれていたり、僕になりすまして新たな借金をこさえてくる双子の兄貴がいたり、九才にして博士号を修了して、学生時代には僕の卒論の指導官もしてくれた弟がいたり、恋人の家のキッチンに得体の知れないパスタ器具が吊るしてあったり、いつも「ええ儲け話があんねんけど」と誘ってくるダブルのスーツを着たお友達がわんさといたりしたら……。

もしもそうなら、僕にだって、なにかもっのすごい才能があったかもしれない。たとえそれが、もっのすごい固結びでも、もっのすごく瞬時にほどける才能であったとしても。

しかし、残念ながら、どちらかと言えば、いや、我ながら確実に、今でも健在の両親の、一杯の愛に包まれて育てられてしまった。

だから、人並み以上の仕事をせい、と求められたって土台無理なのだよ。会社と裁判しなくちゃならんほどの発明もしないし、受賞式にお呼ばれするような仕事も残さないし、僕の名前を冠したビルも建たない。

ですから部長、そのへんのところを、何卒、ご理解いただけますようお願い申し上げます。

敬具

(了)