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月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。2003年より書いていた月イチコラム「月刊ショータ http://monthly-shota.jp 」をhatenaに転載しました。そのため、一部お見苦しい点があることをご容赦ください。

「あんたたち、どこで打ち合わせしたんや?」

column
現在の僕の通算打率は、〇割〇分〇厘。二打数ノーヒット。
ショートゴロ、見逃し三振、デッドボールがその内訳だ。
はっきり言って、この数字では戦力外通告は時間の問題だ。
僕は野球を一度しかしたことがないのだ。それ以前にもバッティングセンターでは打っていたし、キャッチボールだってできる。
でも、試合は一度だけ。全く打てず。そして、守れず。
テニスや水泳の経験はあるが、野球ってのはまず「広い土地が必要」という点がすでに庶民向けでないし、「一チーム九人」というのも、政財界にまで及ぶ広い人脈がなければ集めることが難しい。
サッカーに押されて、野球人気の凋落が言われて久しいが、そもそも「石みたいに硬いボールを、観衆でひしめき合う客席にブチ込むと点が入る」などという、ファンの安全性を無視してきた基本的仕組みに問題がある、と僕は問題提起したい。
そんな僕は、プロ野球観戦をする度に感じることがある。
それは、観客の応援の仕方が、どうも規律的で僕としてはノレないな、ということだ。
このバッターにはこの曲、この場面ではこの掛け声、中にはダンスまで決まっていて、客が一斉にメガホンやタオルなどを手に規則的に動き出す。それが僕には気味悪いのだ。なんだか北朝鮮マスゲームを連想してしまう。「あんたたち、どこで打ち合わせしたんや」と不思議である。
コンサートもしかりで、同じように手を叩いたり、踊ったりすることに拒絶反応が出てしまう。ライブにはしょっちゅう行くのだが、いつも直立不動。ギタリストの手元を凝視しているか、気になる人の一挙手一投足を見守る。客席にかわいいコがいたりすると、視線はそっちに吸い寄せられる。
考えて見れば、普段のスーツ&ネクタイも同様で、先日展示会を見に幕張メッセに行ったところ、来場者のほとんどはスーツ姿で、みんなそれぞれ会社も違えば、目的も様々でやって来たのに、格好は同じという光景が気色悪かった。うちのおかんが、モーガン・フリーマンサミュエル・L・ジャクソンの見分けがつかないように、外国人の目には「日本人はみんな一緒」と映っても文句は言えないな、と思った。だって同じ服着て、だいたい同じ髪型してるんだもん。
ちなみに僕は、長谷川京子矢田亜希子の見分けがつかない。
アメリカの社会学の教科書には日本人の工場労働者が「朝のラジオ体操」をしている写真が載っていて、「日本人は規律を重んじる」ということになっている。アメリカ人から見たら、ラジオ体操とか、毎朝社訓を唱えるとかいう行為は、不可解だし、きっと狂信的に感じられるのだろうな。「こいつらとケンカしたらカミカゼアタックもされかねない」という恐怖心はどこかに残っているはずだ。
でも、実際に、この二十一世紀の世の中で、企業社会における竹槍精神って残存する。残業多い者がエライ、徹夜する者こそ本物、みたいな。
仕事が遅いだけやろ。
結果として、日本人の「勤勉」「従順」というステレオタイプが築かれていく。
「全てのステレオタイプは真実である」という考え方がある。火のないところに煙は立たない、みたいな考え方なのか、どんなに不名誉なものであっても「だってホントじゃん!」ということである。確かに、「日本人は勤勉で優秀」というステレオタイプは喜んで受け入れても、「日本人はメガネで猫背でカメラを下げている」という固定観念に対して異を唱えるのは都合が良すぎるってものかもしれない。
まぁ、海外に行って日本人観光客をつぶさに見てみれば、確かにメガネで猫背でカメラを下げているはすだ……。ハズカシながら。
織田信長は初めて黒人を見て、家来に「洗ってみろ」と言ったらしい。その後で、黒人に向かって「よし、ダンクをしてみい」と申し付けた。
しかし、昨今のポリティカリーコレクト運動で、この不適切発言は歴史から消去された。
アメリカの人種比率で黒人は十二%程度なのに、NBAの選手の大多数は黒人なのだ。黒人ならみんなダンクシュートできると思ったノブさんに、罪はない。
テレビで、タレントがアメリカ人のマネをする時に付け鼻をしたり、インドを紹介するときにターバン巻いてカレー食べたり、アフリカなら槍持って跳ねたりするが、日本人も海外では胴着で「アチョー!」という理解しかされていないことが多い。テレビ番組制作の人間が無知という問題以前に、「未知なものは、ステレオタイプでしか理解できない」という事実がある。
そして、ある側面、本当であることは否定できない。オリンピックでも日本の柔道は圧倒的に強い。
だから、認めると認めざるにかかわらず、二十一世紀の世界においては、白人はカッコイイし、黒人は強くてリズム感があるし、黄色人種は頭いいし、ユダヤ人は金持ちなのだ。
逆に言えば、ブサイクな白人と、音痴な黒人と、頭悪い日本人と、ビンボーなユダヤ人と、油の出ないアラブ人と、料理のできない中国人と、心優しいロシア人と、モテないイタリア人と、熱くないスペイン人はダメ野郎なのだ。
人間を作るものは生まれつきの資質か、環境や教育か、という議論があるが、アメリカ人知識層はどうしても「持って生まれたもの」を認めようとしない。
人種間の能力差ではなく、努力によってみんな成功できる、というアメリカン・ドリームを前提に成り立つ社会だからだ。極言すれば、アジア系だろうとヒスパニックだろうとがんばれば大統領にだってなれる、ということだ。
無理だけどね……。 多分、暗殺されるけどね。
だから、人種と、加えて性別に関わる生まれつきの資質というものが公言できない。日本人の僕なんかからすれば、駅伝で山梨学院大のランナーに黒人がいるだけで、「あ、かなわん」と思ってしまう。
ナイジェリアからの留学生というだけでビビるのに、それが栃木県から下宿している小松くんだったら、別にそうは感じない。
人種別の資質を認めることができないアメリカ人ってのは、きっとブサイクな白人か、ダンクのできない黒人なんだろうな。
(了)
P.S. オバマの登場で、こんなに早く(2009年就任)有色人種の大統領候補が実現するとは、この時点で想像もしなかったな。