月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「アレの話」

今夜独り、近所のうどん屋で夕飯を食べているとTVのニュースが流れていた。会社社長の小林さんという人が夫婦で心中した、とのこと。その小林氏の兄が経済界の重鎮だったためにニュースバリューが生まれた。
それを眺めていた店のオヤジが傍らの奥さんに向かって言った。
「小林さんいうたら、お前、経済同友会の次のアレやないか……」
沈黙。
(アレって何やねん!)
僕は危なくツッコミを入れるところだった。
その後、TVでは「世界不思議発見」が始まり、女性リポーターがタヒチの海でエイと戯れていた。フワフワ浮かぶように泳ぐエイだが、その尻尾には猛毒がある、とナレーターが伝える。
オヤジが今度は僕に話しかけてきた。
「エイがどうやって刺すか知ってる?」
「いいえ」
「……エイッってね」
仕方ないので、座布団一枚差し上げておいた。
まぁ、これはいいとしても、アレってのはなんだったんだろう。
うちの両親も「アレ」を多用する。いつだったか大学の受験料の高さについて話していた時、親父が言った。
「まー、大学は生徒のことなんて金を持ってくるアレとしか思ってないからなぁ」
だから僕はこう返した。
「まぁなあ。我々なんて、金を持ってくるアレみたいなもんだからね」
このジョーク、おかんだけが分かってくれたらしい。親父は無反応だった。
そういうおかんも、二階で洗濯物を畳んでいるときに、僕が「雑巾にしてもいいタオルってない?」と尋ねた際、
「あのー、下のアレの上のところに……」
これで分かれって言う方がおかしい。上なのか下なのかもわからん。
「こう言ってしまってはアレだけど」とか「あの人はほら、アレだから」とかなんとも面白い表現だ。日本語を学ぶ外国人てのは大変だろうな、とつくづく頭が下がる思いだ。
とはいえ、加齢と共に起こる言語能力の衰退、記憶力の低下ってのは、僕にもぼちぼち出始めている。好きな歌の曲名が思い出せないなんてのはしょっちゅうだ。僕の部屋にはたくさんの本が並べてあるが、内容なんてほとんど覚えていない。好きな俳優なのに、いっつもメグ・ライアンの元旦那の名前を忘れる(あ、デニス・クエイドだ)。仕事でも、「頼むよ」と言われたことをいとも簡単に忘れる。ホントに仕事に支障が出るレベルで忘れるので、毎日ビクビクしている。
大学院まで行った(中退)僕が、一時は憧れた学者の道を断念した理由も、実はここにある。僕は通常「男性の多くは」とか「アメリカ人の大半は」とかいう言い方をする。知識もいい加減だから「ある作家がね、確かこういうことを書いてるんだけど」という程度に留まる。
ところが、学者になる人間てのは「アメリカの81.3%の人間がね」や「マックス・ウェイバーが一九〇四年に書いた『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の文脈から、こういう言説が生まれてきたんだ」や「チャールズ・H・クーリーが一九〇二年に出版した『The Human Nature and The Social Order』という本の中で鏡の中の自己という理論を打ち出しているんだ」などという表現を日常会話の中で平気で遣いやがるのだ。
かなわん、と僕は思って早々に中退を決心してしまった。あいつらどういう記憶力してやがるんだ……。
まさかショータ教授の授業が「え〜、マックスなんとかが、むかーしに書いた本でね、『プロ……なんとかのかんとか』いうのがあってね、現代社会学にはまぁまぁ大きなアレを残しているわけだよ」などというものだったら、生徒はなにも学びとることはないだろう。
役には立たないが、退屈しない授業をする自信はある。もしかして僕、道を誤ったか。
(了)