月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「誰もつくっていないのに、誰かがつくったかのようなルール」

長いこと日本社会を眺めていると、多くの人が感じているであろう息苦しさの一因はこういうところにあるのではないか、と考える。
それは、日本特有の「ただの慣習が、あたかもルールであるかのように固定化する現象」である。サラリーマン文化に顕著だ。

たとえばリクルートスーツ。
「面接にはこういう服装で行く人が多いみたいだよ」という定番が、いつの間にか「こういうスーツで行かなくてはいけない」というルールのようになる。

この意味をちょっと拡大すると、たとえば駅でキレるおっさんである。
あくまでも「こういう予定です」という時刻表から、電車が少しでも遅れると、それが犯罪であるかの如くギャーギャー騒ぐ。

さらに拡げると、たとえば浮気である。
婚外セックスをしてはいけないのではない。婚外セックスをしてはいけない夫婦関係がある、というだけのことだ。中には「自分の妻が他の男に抱かれているのを見ると興奮する」という変わった趣味の持ち主もいるのだ。
つまり、浮気してはいけないというのは法律ではなく、当事者(夫婦)間のみの問題なのである。文春砲に代表される週刊誌ジャーナリズムが、飽きもせずつまらん下半身の醜聞を書き立てているが、結局みんな人のセックスが気になって仕方ないのだ。そんなことより、僕は自分のセックスをなんとかしたいが。

先にサラリーマン文化に顕著と書いたが、
「先輩より先に帰ってはいけない」とか
「シャツは白しか着てはいけない」とか
(今どきナイとは思うが)「女性社員がお酌をしなくてはいけない」とか
「高級な時計はしてはいけない」とか
「黒以外のカバンは持ってはいけない」とか
「ヒゲは生やしてはいけない」とか
「クライアントの前でコートを着ていてはいけない」とか
「会議室では、エラい人より先に座ってはいけない」とか
「転職は30までにしなくてはいけない」とか

今年だけでも、パンプスの話、忘年会の話など、いろいろしょーもない話題があった。

ため息が出る。

 「そんなの好きにしたらいいじゃん」

「そんなことを人に強制しても、お前の人生に関係ないじゃん」

「そんなので仕事がなくなったりしないじゃん」
としか思えないのである。

先日、古巣の電通に呼ばれて1時間講演をさせてもらったのだが、先方からの「こういう内容を話してください」という要望の中に、「自分が電通に戻ったらなにをしたいか」というものがあった。
それは「現実的に戻ることはないが」という英語の仮定法のような前提であったように感じる。いや、戻りたい人がいて、会社側もそれを受け容れるなら戻ればいいのではないかと思う(僕自身はそういう希望はないので、それについてはお話ししなかった)。
現に、僕が知る電通インドネシアでは出戻り社員は珍しいことではなかったし、それを会社が歓迎する雰囲気があった。
現地の拠点長も「一度うちにいて、欧米系の代理店に転職したけど、家族的空気がある電通をやっぱり選んで帰ってきてくれるというのはうれしいことだ」と言っていた。

日本の電通では特殊な例になると思うが、なにも「電通たるもの、一度去った人間を再び迎え入れることはない」などと決めつけることはない。そういう社則もないはずだ。

 

もっと自由にやったらいいのではないか、と僕は最近の日本に対して思う。
どうしてありもしないルールに自らがんじがらめになろうとするのかなぁ、と。

会社辞めるのも、転職するのも、独立するのも、まったくちがう仕事をはじめるのも、海外行くのも、好きな服着るのも、髪伸ばすのもヒゲ生やすのも、誰とどういう付き合いをするのも、好きにしたらええんちゃうん。

ダイバーシティという言葉が昨今よく使われるけど、それはLGBTQに代表されるセクシュアルマイノリティーの性的志向や外国人の宗教や国籍だけにかかわることではなくて、それは「ひとりびとりの多様な生き方」を認めることである。

つまり、少数の誰かのハナシではなく、あなたや僕、全員にかかわることなのだ。

もう一度言う。「ダイバーシティとは、個人のいろんな『生き方』を個性と認めること」である。

そして、人間の社会とは歴史を通じて少しずつ自由を獲得してきたのだから、これはちゃんとした使い方を知った方がいい。
つくづく、日本人というのは自由の扱い方に慣れていない。
もちろん、ここで言う多様な生き方とは「川にゴミを捨てる自由な生き方」とか「上下関係を利用して、女の体を自由に弄ぶ生き方」ではない。本当のことを言えば、「人込みの中でもスマホから目を離さずのろのろのろのろ歩く自由な生き方」であってほしくもない(自由なのだろうけど、僕はそういう人間を「救いがたい愚か者」として僕の意識する世界から出て行ってもらう自由を行使する)。

自由でいようとすると、(親や家族を含む)つまらん連中から横槍が入ったり、陰でなに言われるかわからなかったり、人間社会というのは面倒くさいものだ。

その都度、説明責任を果たし、いちいちたたかわなくてはいけなくなるのだが、自由は勝手にはやって来ない。勝ち得なくてはならないものだ。
ヒゲを生やして働くために法廷で二審までたたかった人もいる。

大阪メトロ職員のひげ禁止訴訟、2審も違法性を認定 - SankeiBiz(サンケイビズ):自分を磨く経済情報サイト

〈楽しく生きるためにはエネルギーがいる。戦いである〉
これは村上龍『69』の、著者によるあとがきの言葉である。

自由で楽しく生きるというのはぜんぜんラクではない。まぁなんという救いのない真実であることか……。

 

なんでこんなことをつらつらと考えたくなったかと言うと、今年一年を振り返って、僕自身は、自由にだらしなく生きてしまって、「こうありたい」のに「ラクしたい」自分が勝ってしまうことが多く、精神的にはキツかったのである。ちょっと自己嫌悪で年末を迎えているのだ。
それと、それぞれ仕事や生き方に悩む友人たちを見ていて「もっと自由にやろうぜ」と無責任にハッパをかけたい気持ちがあったのである。

新年がよりよい一年であらんことを祈りつつ、今日がっつり筋トレしたのに、晩にビッグマック食べちゃったワタシは、3歩進んで2歩下がる感じで漸進したいと思います……。

 

令和元年の大晦日
自分の店の書斎にて
前田将多

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