月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「ボカシだらけのニッポンに」

先月、参議院議員選挙が終わった。票を投じるにあたり、どういう日本になってほしいか、各人が考えたことだと思う。
僕自身も、なんの権限もないのに、大統領にでもなったつもりでつらつら考えることはあるので、我が国、我が国民の「そういうの、やめといた方がいいよ」と思う事柄を挙げてさせていただく。

法治国家としてあれこれもうちょっとスッキリと、人々は雨にも負けず溌剌と、しないものかなぁ……。 

f:id:ShotaMaeda:20190805214711j:plain

オレは、こういう人がいたら友達にはなりたくない……

①とりあえずボカシ入れてうやむやにする

逮捕された人が護送されるときに、手のあたりにボカシが入っているニュース映像は誰でも目にしたことがあるだろう。

「人権保護のためのテレビ局の自主規制」とされているが、あのボカシの向こうで手錠がかけられている以外のなにがされているというのだろう。そんなに人権を保護したければ顔にモザイクをかけるか、そもそも映像での報道をしなければいいではないか。

「手錠の手元をボカスと、それを見た人は逮捕されたことが認識できず、人権が保護される」という論理が通用するなら、「ポルノの局部にボカシを入れると、それを見た人は出演者がセックスしてることが認識できず、公序良俗が保たれる」ということになる。

こういうわけのわからない考えを本気で信じて、ジャパンではボカシを入れることにしたのだろう。昔のポルノは実際にセックスをしていたわけではなく、それらしく演技していた「疑似本番だった」ので、取締当局と製作サイドは共犯だった構図になる。
「このビデオは本番しているらしい!」ともなれば、ボカシは入ったままなのに、男たちが狂喜してこぞって見たがった。そんな牧歌的な時代があったようだ(四十三才の僕よりも上の世代)。

「……1980年代後半から90年代初頭にかけて、AVの帝王・村西とおるは徹底した『本番至上主義』を掲げた」らしい。僕はその分野は詳しくはないのだが、東良美季さんという作家が書いていた(メール配信日記『勝谷誠彦の××な日々』2018年2月10日付録より)。
こういったエロ映像作家の情熱に興味がある方は東良氏の著作『裸のアンダーグラウンド』をどうぞ。
野坂昭如『エロ事師たち』は、エロ写真の闇販売からブルーフィルムの製作で一発当てようとのめり込んでいく男たちの話で、舞台は60年代だったが、いつの世も男というのはエロに必死なのである。

が、このコラムで改めて、男たちのエロへの必死さをお伝えしたかったわけではなかった。
ましてや「オレはうやむやが嫌いなんだ! ハッキリぱっくり見せんかい」と強調したいわけでもない。

ボカシのような「表面上ごまかしているが、真相はバレバレ」という例はこの国に多いと言いたいのだ。パチンコは文鎮とか火打石をゲットして喜ぶ場所ではないし、ソープランドはお風呂に入って疲れをとるお店ではない。
インターネットでエロスなど無限に触れられる現代に、いつまでこういう時代遅れをやっているのだろうか。先進的な法治国家といえるのか。

インターネットの発達自体が、「画像が見たい」「もっと鮮明な画像が見たい」「映像が見たい」「出会いたい」というエロの欲望とともにあった、というか、性欲によって駆り立てられて発展したわけだから、いい加減見て見ぬふりはしない方がいいように思う。

もっと言えば、非合法にしておくから、なんぼでも抜け道があって水面下で売春が行われる。援助交際パパ活も含めて、煎じ詰めれば売春なわけで、これは法で止められるわけがないのだから、合法化して税金を課するべきである。

正直言って、エロから税金をちゃんと徴収できれば、日本の税収なんかかなり余裕が生まれるだろう。それを社会福祉にあてるべきだ。しかも、反社会的組織に資金がまわるのも防ぐことができる。

日本の性風俗産業の市場規模は7兆6千億円で、国が負担する公務員の人件費に匹敵するのだという。(門倉貴史著『世界の[下半身]経済がわかる本』

自衛隊は子供の目に触れる場所に来るな」などと、まったく世の中の仕組みを理解していない女性団体とかが、売春を非合法のまま看過するのは、反社会的組織という敵に塩を送っていることになる。

special.sankei.com

その手の方々がお好きなリベラルで先進的な国々は、売春合法化に踏み切っていて、国際人権団体アムネスティもそれを支持する方針を打ち出した(2015年)のだから、あの人たちが反対する理由はあるまい。

www.amnesty.or.jp

「教育が大事です!」と言ったって、高い教育を受けてなお売春をする人はいる。貧困が根底にあることに疑いはないが、お金に困っていなくてもする人はいるのだ。男を買う女ももちろんいる。
男に関しては、出身、職業、容姿、収入にかかわらずいる。奨励はしないが、止められるわけがない。

これは好き・嫌い・キモいの問題ではないのだ。

 

②マジメな顔して毎日働く

上記の女性団体のように、人(世論)が事実ではなく感情や信条で動く現象を「ポスト・トゥルースpost-truth)」と言う。

逆に無感情であることが日本人に大きな弊害をもたらしていると思えるのが、「働き方」だ。

僕は、日本人の労働観の問題は電車の中に凝縮されていると考えている。
「本日は○○電鉄をご利用いただきましてありがとうございます。この電車は○○行き急行です。お立ちの方は手すりか吊り革におつかまりください。車内に不審物がございましたら乗務員にご連絡ください。携帯電話のご使用はまわりのお客さまのご迷惑になりますのでお控えください。優先席は体の不自由な方、お年寄りにお譲りください。傘などのお忘れ物にご注意ください。次は○○駅に止まります」などと発車してから、注意事項を延々としゃべっていて、ものを読んでいる僕は「ちょっと黙ってくれ」と思う。
揺れたらつかまるし、ヨロヨロしたジイさんが来たら座ってても席譲るから……。

こうやって規則通りにテープ(古い)のように喋りつづけるから、バカな人は「こいつは感情のないロボットに違いない。だからなにを要求してもいい」とどこかで思い込むのではないだろうか。

駅員さんへの暴力というのは、こういうところに淵源があると、僕は思う。

「きみが人間らしく振る舞わないと、人として扱われないんだぞ」(拙著『広告業界という無法地帯へ』より)ということだ。

もちろん、暴言を吐いたり、暴力をふるったりする人間が悪い。しかし、これも売春と同じで、いつの時代も根絶はできない。こちらが変わることで防衛できることはある。

「電車の運転手が水を飲んだらクレームが来た」というため息が出るような話題があった。

www.j-cast.com

消防士が消火活動の帰りにうどん屋に寄って叱られたとか、警察官はコンビニに行くとき私服に着替えるとか、日本人、ええ加減にせなあかん。

去年の夏、僕の店の前にパンクしたパトカーが停まって、自動車警ら隊員なのか、かなり重装備の警官が大汗かきながらタイヤ交換をしていた。
僕が冷たい水を差し入れたところ、彼は一気に飲み干して、お礼を言って笑顔で去っていった。一日気分がいいではないか。

僕が電通時代に感じていたことだが、クライアントとの合計六、七人の打合せがあったとしよう。そういう場で、僕が冗談を言って笑わせると、その笑い方は「いけないブラックジョークに笑うような」様子なのだ。特に上司がそこにいる場面に多い。

僕は「ああ、この人たちは職場で笑ってはいけない」と思い込んで働いているんだな、と気の毒に思ったものだ。

電通関西支社というのは、いつでも冗談ばかりの笑いの絶えない職場であったから(部署によるw)、なおさらそのように感じた。

おそらく、日本の大企業の大半がそういう「マジメなだけ」の会社なのではないかと想像する。僕はそれならそうと、なおさら余計な冗談を言ったり、メールに書いたりして仕事をしようと心がけた。

それは自己防衛の手段でもある。
相手がどーでもいいマシーンなら、
「これ、明日までにやって」
と、ボタンを連打するように命令すれば済むが、相手が感情もあり、冗談も言う人間なら、
「すみません、こうこうこう言う事情がありまして、なんとか明日までにできないでしょうか」
とお願いしたくなるだろう。結局明日までにやんのかい。

いや、同じ明日までであっても、その言い方によって、こちらのやる気はだいぶちがう。
場合によっては「任せとけい! ひと肌脱ごうじゃないか」という気分にすらなるだろう。

人間が働く意味とはそこにある。誰かのために、なにかをすることではないのか。

 

③ただの慣習を、いつの間にか厳格な規則のように扱う
先日、葬式に行ったのだが、一緒に行った後藤さんは喪服を持っていなかったので、実家からスーツを取り寄せた。すると、二十年近く昔のものだったため、ウエストがまったく入らない。
だから、「後藤さん、とにかくなんか黒い服着ておけばいいよ」ということにした。
後藤さんは、辛うじて着られた上着と、黒いズボンの下に、VネックのTシャツを着て行った。
僕自身も、喪服は持っていない。ただ黒いスーツ一式を持っているだけだ。
これはアメリカでもそうで、亡くなったのが近い家族か、よほどの要人でもない限り、真っ黒な正装なんか庶民はしないものだ。
カウボーイなんて、黒いジャンパーに黒い野球帽かぶって行っていた。

リクルートスーツというものの存在などもっとわからない。
あなたの個性が問われている就職面接なのに、「なるべくみんなと一緒になるように」同じようなスーツを着たり、女子なら同じように髪をひっつめたりする必要なんかない。
いや、「みんなと同じように働きたいんです」という人はそれでいいだろう。それならそうして、量産されたロボットのように働いて、酔っ払ったおっさんとか、高圧的な上司に罵倒されるのも甘受して働いてください。

それが嫌なら「誰が決めたのかもわからないようなルール」は疑うべきだろう。自分で考えて、人間としての感情も個性も尊厳も保って、抗ったらいいのではないだろうか。善くも悪しくも、堂々とやれば、おっさんらはなにも言ってこないものだ。

なんでもかんでも慣習を否定しろ、と言いたいのではない。日本には上座下座とか、お箸の使い方とか、特にサラリーマンには「新人がエレベータで立つ位置」、「タクシーで座るべき階級順の位置」などさまざまな馬鹿らしいような慣習がある。
しかし、それらは相手がある際のことなので、知った上で臨機応変にやったらいいのだ。
葬式なら黒いものを着ていれば文句言う遺族はいないだろう。
そんな時は「香典返せ、この野郎。お前が死んだのか」と一喝したらいい。

面接ならなおさら、男は自分が一番カッコよく見えると思うスーツを着て、女は自分が一番きれいに見えるメイクをしたらいいのだ。

カッコいい男たち女たちが増えないと、この国はヤバいと思うよ。

 

「NHKをぶっこわせ!」と連呼していた人が参院選に通ったが、「ボカシなんか、とっぱらえ!」でなんとかいけないものだろうか。いけちゃうような気がするぞ……。