月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「2019年上半期、凄味のある4冊」

今年も半分終わってしまった、ということで、ここ半年で読んでおもしろかった本を紹介することにしよう。僕の「読書感想文」程度の、とっ散らかったものです。

f:id:ShotaMaeda:20190630150733j:plain

藤沢周 著『界』(文春文庫)

「文豪」という言葉を思うとき、僕は現代の文豪とは藤沢周さんなのではないかと考えている。
「豪」というのは、力量や才知がすぐれている人、という意味である。

文豪、性豪、上田豪。
その語感には、凄味と呼べるような、ただならない妖しさとか、「豪」であり「剛」である強さ(こわさ)が漂う。
あ、上田豪さんは銀座でグラフィックデザイナーをしている僕の友人だ。

「おもしろかった本」を紹介すると言った先から矛盾するが、藤沢氏の小説はおもしろいのとはちがう。引き込まれてページを繰る手が止まらない、というのともぜんぜんちがう。
だけど僕は、一文一文が芸術品であるかのように鑑賞しながら読んでいく。読み終えても、なんだかよくわからない部分が多々残るのだが、鼻腔の奥にわだかまる余韻のようなものを味わうことができる。

『界』では、妻と別居中で、東京に愛人を残した榊という男が、日本のあちこを遍歴し、月岡(新潟県)で、指宿(鹿児島県)で、比良(滋賀県)で、八橋(愛知県)で、女と出会う。
そこでは性的な関係が直截に描かれていたり、まったくなかったりする。九編のストーリーそれぞれが、男の体臭や、畳や、雨や、居酒屋や、性のにおいを脳に届けてくる。

「この話はこういう意味なんだ」「こういうことを描いているんだ」などと、安易に解説できない凄味に気押される。

僕は一度、藤沢氏の同じく短編集である『サラバンド・サラバンダ』の書評めいた短い感想をツイッターに書いたことがある。これを目にした氏は喜んでくださった(酔っ払っていらっしゃったのかもしれない……w)のだが、まぐれ当たりがつづくわけはないので、なにか憶断するような言葉は慎みたい。

 

 

ただ、においなのだ。
人間の五感の中で、嗅覚だけが脳に直接運ばれる。ほかの四つは視床という部位を通じて脳にやってくるが、嗅覚だけはそこを経ることなく大脳皮質や扁桃体に届くという。

『界』というのは、言葉が視覚を通じて、においを想起させ、それがあたかも直接脳に刺さったかのような錯覚を与える短編集だ。生と死、生と性、観念と実在、ある日とまたある日、彼岸と此岸、それぞれの曖昧な「界」を彷徨うと、現実とも妄想ともつかぬ意識下に、においだけが残る。
なにかの感情や感覚を惹起するのが芸術なら、藤沢作品はやはり文豪による文芸なのである。

f:id:ShotaMaeda:20190630152100j:plain

藤沢周 著『界』(文春文庫)

 

内村光良著『ふたたび蝉の声』(小学館

内村光良と表記されると咄嗟にはわかりづらいが、ウッチャンナンチャンウッチャンの書き下ろし小説である。

会沢進という遅咲きの役者は、妻、百合子がありながら、仕事仲間のミサキに淡い恋心を抱いている。
進の姉、ゆりは、宏という年下の彼氏から求婚されるが、自らの離婚経験のため躊躇する。
竜也は進と同級生であった高校時代は、ピッチャーで地元のヒーローだったが、挫折していまは借金漬けの怠惰な生活を送る。
そして、進とゆりをあたたかく見守る両親の正信と浅江。
こういった登場人物による、昭和から平成を通じた、家族とその周辺の群像劇である。

殺人鬼も、国際スパイも登場しなければ、巨悪もカーチェイスも出てこない。日常の悲喜劇が、わりと淡々と語られるのだが、それぞれ時代を懸命に生きようとする市井の人々の家族愛が通底していて静かな感動がある。

吉田修一作品を彷彿させる、陽だまりを歩くようなやさしさがあり、胸をしめつける切実さがあり、誰もが「明日もがんばろう」と思うはずだ。

f:id:ShotaMaeda:20190630152145j:plain内村光良 著『ふたたび蝉の声』(小学館)

 

鷹匠裕 著『帝王の誤算 小説 世界最大の広告代理店を創った男』(角川書店

一転してこちらは、権謀術数、策略と欲望渦巻く広告業界の話を「小説」の体(てい)で描いたものだ。

電通の第九代社長から、電通グループ会長、そして最高顧問になった成田豊氏が、「電通の成田」ではなく「連広の城田」という架空の人物に置き換えられている。

電通が連広であるように、博報堂が弘朋社、トヨタがトモダ、ニッサンがニッシン、マツダがマツノ、日立が日同と、モデルが丸わかりの中、当時(こちらも昭和から平成)の広告業界の「ほんまに?」という水準のムチャクチャぶりが、ゾクゾクするような緊張感あるストーリーに乗せられている。

たとえばこうだ。

トモダの高級車「マークZ」の広告業務は、それまで連広が一手に扱ってきたのに、弘朋社との競合になった。それぞれがプレゼンをした末、弘朋社が勝ち取った。
怒った城田は、はじめは新型マークZの不備を探らせ、不買運動でも仕掛けてやろうかと考えるが、新任の営業局長の奇策を採用し、逆に社員を使って、次々に購買予約をさせた。社員には知り合いを引き入れることまで奨励し、会社から支援金を奮発した。
さらに、パブリシティ費用を連広が負担して、雑誌や新聞といったメディア各社に「新マークZは素晴らしい」という記事を書かせまくる。

すると、どうなるか。
生産が追いつかなくなって、トモダは、手に入らないものを大々的に広告することは消費者への不義であるとして、マークZの広告キャンペーンを中止にし、すでに押さえてあった広告枠は、別の車種に切り替えたのであった。

これ以上書くとネタバレになるから控えるが、こういった逸話が次から次に出てくる。

大企業との広告業務以外にも、オリンピックや都知事選といった国家を動かすようなイベントに連広がどのようにかかわってきたのかもわかるようになっている。

成田豊氏は、僕が電通に入社したときの社長であった。
平社員の僕からしたら、会話したこともないエライさんだったが、僕が入社した年(二〇〇一年)に、電通の株式を公開し、汐留本社ビルを建て、グローバル化に舵を切った、いまの電通の方向性に大きく影響を及ぼした社長である。

「ボンクラ社員がなにを」と言われるだろうが、実は、僕は株式公開と新社屋建設は誤りだったと当時から考えていた。
乱暴に簡略化して言うが、姿の見えない“ステイクホルダー”や、フランスの建築家に設計させたがために、車寄せが日本と逆方向にカーブしているようなビルディングに重きを置いたがために、そこで働く人間たちがないがしろにされていった、その「終わりの始まり」であったと考えているからだ。

本作中にも、九一年に実際にあった若手社員の自殺が出てくるが、結局そこから大した方向修正もせぬまま、「クライアント・ファースト」で突っ走り、一五年の女性新入社員の自殺というショッキングな事件に帰結することになる。

電通上層部の暗躍についてエンタメとして読みたければ『帝王の誤算』を、電通平社員の現実に泣き笑いしたければ拙著『広告業界という無法地帯へ』を読まれたし。と、自分の宣伝もさせてね。

『帝王の誤算』で、ひとつ、印象に残ったセリフがある。
東京へのオリンピック再誘致の事業を、連広が競合を経ない随意契約で受注し、それを議会で突かれた石原慎太郎氏と思われる夏越議員が言い放つ。
「君たちは知らないかもしれないが、こういう仕事をできる会社は日本にひとつしかないんだ。連広だよ」

それは、まぁ真実なのではないかと思う。なんでも屋たりえるネットワークと、能力ある社員を保持していることは事実だろう。
ワタシが尻尾まいて逃げ出すくらい優秀な人が多いのだから。わっはっは。

f:id:ShotaMaeda:20190630152448j:plain鷹匠裕 著『帝王の誤算』(角川書店

 

■田中泰延 著『読みたいことを、書けばいい 人生が変わるシンプルな文章術』(ダイヤモンド社

さて、トリは、僕の電通時代の先輩であり、盟友のひろのぶさんである。「泰延」という漢字を変換するために、「泰平」と打って一字消し、「延長」と打ってまた一字消すのが面倒くさいから、ひろのぶさんと表記することにする。

書きたいことや書けることはたくさんある。
しかし、ツイートがおもしろすぎてフォロワーが五万人に達しようとしているひろのぶさんの初の著書の内容がいかに素晴らしいについては、ほかに多くの方が競うように、筆を尽くして書いているから、「本当のことしか書かない」コラムニストとしての僕は、以下の二点にのみ言及しておこうかと思う。

 

これを著者本人に読まれると失礼でアレだが、僕はいつもこの本について人と話すとき、こう言う。
「おもしろかったよね。でも、あれ、ギューッと詰めたら、厚さこれくらい(人差し指と親指で四ミリくらいを示す)だよね」

もちろんわかっている。その中に大切なことがたくさん詰まっていて、それをエンターテインメントとして、語りかけるように一気に読ませるひろのぶさんの技量と才能がほとばしるようなのである。

本というのは、書けと言われて一生懸命書くと、編集者に「減らせ」と言われる。
「こんな厚い本は、もう人は読まない」、「文字ばっかだと売れない」というのである。

だから、『読みたいものを、書けばいい』は、構造として革新的だな、と感心した。
大きな余白、でっかい文字、ひろのぶさんのウェブ記事の特徴である、そこここにある太文字。それでも内容は濃密この上ない。
QRコードで過去の記事をスマホで読める仕組みも、田中泰延氏にはじめて触れる読者には親切である(日本の人口の半数以上はツイッターなどしていない)。
ダイヤモンド社の編集者である今野氏の手腕なのかな。

 

もう一点。僕は「文章がうまくなる方法」というものには否定的なのである。そのほとんどは遺伝子によって決まっていることは科学研究が示唆している。
つまりは才能なのである。

はじめにひろのぶさんから「なんか、文章術の本を書かないかって依頼が来て、書こうと思うねん」と聞かされたときは、正直に言うと、
「そんなインチキなもん書きたいわけちゃいますやろ」
と、僕は思ったのだ(今野さんゴメンネ)。

かくして世に出たこの本を、僕は新幹線の中で読んで、新大阪から東京に着くまでに読み終えた。

ぜんぜんインチキは書いてなかった。
それどころか、ひろのぶさんは安易なビジネス書やハウツー本の類を嘲笑って、それこそ「凄味」すら放ってこれを書き切っていた。

ものを書く上での基本スタンス、なぜ書くのか、どうやって書くのか、人を惹きつける書き方とは。これらの「書く」はそのまま「生きる」に置換可能だ。

最後は才能、という自説を僕は変えないが、それを賦活するにあたり知るべき大切なことが凝縮されている。

実を言うと僕は、新幹線での読書の終盤にさしかかる、小田原を通過するあたりで少し涙した。

「ひろのぶさん、やったな……」という感慨が、ここ二、三年という年月の重みをともなって押し寄せてきたのだ。

僕は「死ぬほどやりたいことがあって」、四年前に電通を辞めた。以来、そのひとつひとつを実現するべく、チマチマと活動している。
ひろのぶさんは「死ぬほどなにもやりたくなくて」、二年半前に電通を辞めた。
ご自分でもそう公言しているが、人に「あれ書いて」と頼まれれば書き、「ここに来て」とイベントに呼ばれれば行き、自分からなにかをしたいと考える人ではまったくないのだ。

 

 だけど、人生それだけで済むわけはなくて、
「もうセブンイレブンで働こかな……」
と自嘲していたこともある。
僕は、仕事場の近くのコンビニを指して、
「あそこなら、名札に『けいこ』って書いてある白人のスタッフがいますよ!」
「よし! そこにするわ」
「裏手のあそこなら、平日は美人の人妻が働いてますよ!」
「じゃあ、そこにするわ!」

我々はいつもそうやって笑っては、問題を先送りにする。

ひろのぶさんと僕は、たまにバーで飲むが、いつも楽しい話をしているわけではない。
たいがい、肩を寄せ合って、暗い顔してウィスキーの味がするそれぞれの孤独を舐めているだけだ。上田豪さんも同じような顔して、そこにいる場合もある。

ああして、横に並んでボソボソと話して過ごした夜の数々が、涙で滲む車窓に映し出されるようだった。

 

案の定、この本は高い支持を得ているようで、大きな増刷がなされた。
ひろのぶさんに「おめでとうございます!」とメッセージを送信したら、こんな返信があった。

「ありがとう。とりあえず、セブンイレブンに出す履歴書は引き出しにしまいました」

f:id:ShotaMaeda:20190630153104j:plain

田中泰延 著『読みたいことを、書けばいい』(ダイヤモンド社)