月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「#metoo 時代のHow to SEX」

僕の友人の稲元くん(仮名)は、女の子と飲みに行くと、「サラトガクーラー」を注文するという。彼は現在二十代で、カノジョはいない。
「なんでサラトガクーラーなの?」
僕は尋ねた。
サラトガクーラーというのは、ジンジャーエールとライムジュースのノンアルコール・カクテルなんです。だから、女の子に僕が酒飲めないってバレないんです」

そう、稲元くんは下戸なのだ。彼は続ける。
「ですので、わかってるバーテンダーなら『ハイ』ってそのまま作って出してくれるのですが、そうでない人は『こちらノンアルコールのサラトガクーラーです』って出してきやがるのでムカつくんです」
「『え? 飲めないの?』ってバレてまうから?」
「そうなんです」
「別にええやないか、飲めなくたって」
「ちがうんですよ……。女の子って気を使ってるつもりなのかなんなのか、こっちが飲まないと向こうも『じゃあワタシもいいや』って飲まなかったりするんですよ」

その後の説明を端折って、稲元くんの懸念をまとめると、よーするに、女の子が飲まないとエッチなことをする雰囲気にまでたどり着けるチャンスが減るのだという。彼はヤリたいのだ。いや、彼だけではない。男というのはヤリたい生き物なのだ。

気持ちが悪いと言われようがなんだろうが、僕はそれを否定するつもりはない。若い男がもっと恋愛をしてセックスをしてくれないと、世の中が暗いままだ。人類が繁栄しない。

しかし、稲元くんに根本的なことをお教えしよう。
はじめからウソなんかついてはいけない。

これには僕なりの根拠がある。これは以前(2016年5月号)にも紹介したが、人と人が出会って恋愛関係に発展するには段階というものがあって、「恋愛の発展へのホイール理論」という。社会学者のアイラ・ライスが提唱したセオリーだ。
非常に重要なので、この話は馬鹿のひとつ覚えのように何度でも言うが、これには四つの段階がある。

①Rapport [一致:「いいな」「気が合うな」と思うこと]
②Self-revelation [自己開示:自分について曝すこと]
③Mutual dependency [相互依存:お互いを頼ること]
④Personality need fulfillment [人としてのニーズを満たしてくれること]

②に着目してほしい。自分のことを知ってもらわないと、関係は発展しないのである。
もちろんこれは双方向のことで、出会った二人がお互いを開示し合わなくてはならない。
だから、「僕は酒飲めないんだよね」なんて話は真っ先にしておいた方がいい。あとになってウソがバレると恥ずかしい。たとえ一晩限りの関係を求めているとしても、酔わせてナンとかしてやろうなんていうのは、昨今では「#metoo」の一言で社会的に抹殺されてしまう。


善良(でフツーにスケベ)な男性にとってですら、セックスのしにくい世の中になったものだ。
#metooによって性暴力が抑制されるのは歓迎だが、#metooはほとんど女性から語られた性に終始し、男性は黙っている。偽善者は別として、世の男性は腫れ物に触るように、この話題を避ける。
そりゃそうだろう。本音を言えばヒステリックに指弾され、クソリプが飛んできて、全男性は悪とされ、楽しくもないフェミニズミックな議論に巻き込まれそうだからだ。僕は男女同権を基本理念として、以下は男性の視点から書くことにする。

「同意」についてかなり厳しく定義が進み、このままいくと各人が不動産契約かケータイショップのように、ちっさいちっさい文字で書かれた、読む気もしない長ったらしい文言を読まされ、「同意」にサインでもしないとセックスできなくなるような感慨がある。
それが"Play it safe"だというならそうなのだろうが、同意書を読み上げているうちに、チ〇チンは萎む。そんなことをモノともせずに元気いっぱいに勃起できるほど、多くの男性は心もチ〇チンも強靭ではないのである。

芸能人の不倫が「文春砲」に代表されるイエロージャーナリズムによって見世物にされ、官僚のセクハラ発言が国会を空転させるほどに、性に関して繊細で厳しい世の中だ。大人たちはそんなにナイーブなのか。Naiveというのは、日本人はsensitiveと誤用しているが、より「無知」に近い意味だ。

中年になったアイドルが女子高生を家に呼んで「何もしないなら帰れ」と恫喝するのは同意以前に許されることではないが、大人の男女だったとしたら、どのようにセックスへ向けて合意形成をしていくのか。

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僕が会社で新入社員だった頃、西先輩(仮名)がこう言った。
「社内はやめとけ」
東京ラブストーリー』(一九九一年)世代の僕は、サラリーマンになったからには、テレビドラマのような社内恋愛もしてみたい気持ちがないわけでもなかったが、「社内はトラブルの元だ」と西先輩は断固として言うのだ。
時は二十一世紀になったばかりで、セクハラという概念もまだ曖昧なものだったし、性に関してゆるい社会であったと思うのだが(広告業界なんて、墓場まで持っていかなしゃーない話が山ほどある)、今思えば、社内というのは力関係だらけだ。
同期以外の人間関係は、力関係しかないと言っても過言ではない。そんな中で恋愛をしようものなら、トラブルが尽きない。

上下関係があるのなら、どんな社内恋愛だってセクハラではないか。『はじまりはいつも雨』(ASKA)ではなくて、はじまりはいつもセクハラということになってしまう。

そして、男にとって、「この人に襲われそうになったんです!」と言われてしまえば言い逃れは難しい。まるで痴漢冤罪のように、男性は圧倒的に不利である。
だから、先輩は満員電車の中で両手を上げて耐える乗客のように、社内の女性とは関係を持たないことを徹底した。結果、十数年たった今でも独身を貫いているのだが、これはまぁ自己責任というか、個人の選択の範疇だ。

 
さて、#metoo時代のHow to SEXである。

「おっぱい触っていい?」と同意を求めることはセクハラでアウトなのだそうだが、これは高級官僚のおっさんと取材者である若い女性であったからダメなのであって、稲元くんは若い男性だ。世の中はフェアにはできていない。

稲元くん、僕は特にその方面のエキスパートでもないのだが、正攻法で考えるなら、こうするしかないのではないかという、ひとつの回答にたどり着く。

「セックスしませんか?」

この一言を、どのタイミングで、どういう口調で、どういう表情で、どこまでの関係を築いたあとで、言えるか言えないか。煎じ詰めればそれしかないのではないか。

「ホテル行こう」はもう通用しないことになるのだ。だって「ホテルに行くとは言いましたが、セックスすることに合意はしていません」ということになるからだ。
「おっぱい触っていい?」は、よもや同意を得られたとしても、その先も、「キスしていいですか?」、「パンツ脱がしていいですか?」、「○○を××していいですか?」と延々、許諾を確認しなくてはいけないことになる。その間に再び、チ〇チンは萎む。

最後は法廷に立つ覚悟で、稲元くんはセックスに臨まなくてはならないのである。

 男がバカで、どうしようもなくスケベであることは認める。僕はカナダの牧場でカウボーイしていた時に、牛を眺めてつくづく思った。オスというのは去勢されてさえ、メスがそばにいれば後ろから乗りたがるのだ。バカじゃないかと思ったが、まさにあれが我々の姿だ。

いい女がいればなんとかしてヤリたいと思うし、おっぱいが近くにあれば万にひとつの可能性にかけて「触っていい?」と言うし、昔は公園にエロ本が落ちていれば、雨でグチョグチョであっても木の棒でページをめくったものだ。
オハイオ州立大学の調査によると、若いアメリカ人男性が一日にセックスについて考える回数は平均十九回であるという。

それでもなお、男はつらいよ、と思う。別に、わかってくれとは言わないが、先の「セックスしませんか?」だって、ほとんどの機会では、男が提案する立場に置かれるのだ。提案は多くの場合、却下される。

人間というのは、就職面接であれ、恋愛であれ、拒絶されるのはつらいのである。そのリスクを負って、ベッドに誘い、なにかをトチれば社会的に殺されかねない。
もちろん女にもリスクはある。レイプされるリスク、妊娠のリスク、誰とでも寝る女とレッテルを貼られるリスク(この社会的圧力は結構大きい)、その時は仲良くハメ撮ったものをあとになって晒されるリスクなどなど。たくさんありましたね、すみませんでした。

ただし、前出のオハイオ大の調査を再度引っぱり出してくると、一日にセックスのことを考える回数は、女性の場合で平均十回なのだそうだ。男性の約半分とはいえ、結構考えているらしい。

ということは、「セックスしませんか?」のキラーフレーズだって、もっと女性からリスクをとって言える世の中にならないと、社会の大きな部分はなにも改善しない。本当の意味での男女平等は実現しえないだろう。


雰囲気のいいバーにて、彼女はお酒の何杯かも飲んで、稲元くんはサラトガクーラーですら充分いい気分の夜だ。二人は、カウンターの下で手をつないでみる。が、彼女はそれをすぐに放すと、肘をついて両手を組む。
「今、ワタシがなに考えてるかわかる?」
彼女が笑いかける。彼は、少し胸が弾むのを自覚する。
「え、なんだろ。僕と同じことかな」
「ふふふ、たぶん一緒のことかな♡」
「じゃあ、同時に言おうか」
「いいわよ」
「せーの……」

 

「セックスしませんか!」「最後にアイス食べよ」
どうしてくれるのだ。この恥ずかしさ……。

常に「断られること」「恥をかくこと」に怯える男性は、これ以上リスクが増大するなら、報酬と懲罰を天秤にかけて、もう恋なんてしない、なんて、言わないよ絶対。結局すんねやないか、槇原さん。

いろいろ能書きを垂れましたが、もうはっきりと言うしかないと思うんだ。

ちょっとお茶するように、電車でUSJに行くように、愛車を飛ばして海を見に行くように、波とひとつになるように、紺碧の空に湧き上がる入道雲のように、稲穂が風に撫でられてダンスするように、砂漠の月影に浮かぶ一対のナツメヤシのように、春の訪れに蠢動をはじめる虫たちのように、そして、檻に入れられた牛のように。

「セックスしませんか?」