月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「2019年上半期、凄味のある4冊」

今年も半分終わってしまった、ということで、ここ半年で読んでおもしろかった本を紹介することにしよう。僕の「読書感想文」程度の、とっ散らかったものです。

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藤沢周 著『界』(文春文庫)

「文豪」という言葉を思うとき、僕は現代の文豪とは藤沢周さんなのではないかと考えている。
「豪」というのは、力量や才知がすぐれている人、という意味である。

文豪、性豪、上田豪。
その語感には、凄味と呼べるような、ただならない妖しさとか、「豪」であり「剛」である強さ(こわさ)が漂う。
あ、上田豪さんは銀座でグラフィックデザイナーをしている僕の友人だ。

「おもしろかった本」を紹介すると言った先から矛盾するが、藤沢氏の小説はおもしろいのとはちがう。引き込まれてページを繰る手が止まらない、というのともぜんぜんちがう。
だけど僕は、一文一文が芸術品であるかのように鑑賞しながら読んでいく。読み終えても、なんだかよくわからない部分が多々残るのだが、鼻腔の奥にわだかまる余韻のようなものを味わうことができる。

『界』では、妻と別居中で、東京に愛人を残した榊という男が、日本のあちこを遍歴し、月岡(新潟県)で、指宿(鹿児島県)で、比良(滋賀県)で、八橋(愛知県)で、女と出会う。
そこでは性的な関係が直截に描かれていたり、まったくなかったりする。九編のストーリーそれぞれが、男の体臭や、畳や、雨や、居酒屋や、性のにおいを脳に届けてくる。

「この話はこういう意味なんだ」「こういうことを描いているんだ」などと、安易に解説できない凄味に気押される。

僕は一度、藤沢氏の同じく短編集である『サラバンド・サラバンダ』の書評めいた短い感想をツイッターに書いたことがある。これを目にした氏は喜んでくださった(酔っ払っていらっしゃったのかもしれない……w)のだが、まぐれ当たりがつづくわけはないので、なにか憶断するような言葉は慎みたい。

 

 

ただ、においなのだ。
人間の五感の中で、嗅覚だけが脳に直接運ばれる。ほかの四つは視床という部位を通じて脳にやってくるが、嗅覚だけはそこを経ることなく大脳皮質や扁桃体に届くという。

『界』というのは、言葉が視覚を通じて、においを想起させ、それがあたかも直接脳に刺さったかのような錯覚を与える短編集だ。生と死、生と性、観念と実在、ある日とまたある日、彼岸と此岸、それぞれの曖昧な「界」を彷徨うと、現実とも妄想ともつかぬ意識下に、においだけが残る。
なにかの感情や感覚を惹起するのが芸術なら、藤沢作品はやはり文豪による文芸なのである。

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藤沢周 著『界』(文春文庫)

 

内村光良著『ふたたび蝉の声』(小学館

内村光良と表記されると咄嗟にはわかりづらいが、ウッチャンナンチャンウッチャンの書き下ろし小説である。

会沢進という遅咲きの役者は、妻、百合子がありながら、仕事仲間のミサキに淡い恋心を抱いている。
進の姉、ゆりは、宏という年下の彼氏から求婚されるが、自らの離婚経験のため躊躇する。
竜也は進と同級生であった高校時代は、ピッチャーで地元のヒーローだったが、挫折していまは借金漬けの怠惰な生活を送る。
そして、進とゆりをあたたかく見守る両親の正信と浅江。
こういった登場人物による、昭和から平成を通じた、家族とその周辺の群像劇である。

殺人鬼も、国際スパイも登場しなければ、巨悪もカーチェイスも出てこない。日常の悲喜劇が、わりと淡々と語られるのだが、それぞれ時代を懸命に生きようとする市井の人々の家族愛が通底していて静かな感動がある。

吉田修一作品を彷彿させる、陽だまりを歩くようなやさしさがあり、胸をしめつける切実さがあり、誰もが「明日もがんばろう」と思うはずだ。

f:id:ShotaMaeda:20190630152145j:plain内村光良 著『ふたたび蝉の声』(小学館)

 

鷹匠裕 著『帝王の誤算 小説 世界最大の広告代理店を創った男』(角川書店

一転してこちらは、権謀術数、策略と欲望渦巻く広告業界の話を「小説」の体(てい)で描いたものだ。

電通の第九代社長から、電通グループ会長、そして最高顧問になった成田豊氏が、「電通の成田」ではなく「連広の城田」という架空の人物に置き換えられている。

電通が連広であるように、博報堂が弘朋社、トヨタがトモダ、ニッサンがニッシン、マツダがマツノ、日立が日同と、モデルが丸わかりの中、当時(こちらも昭和から平成)の広告業界の「ほんまに?」という水準のムチャクチャぶりが、ゾクゾクするような緊張感あるストーリーに乗せられている。

たとえばこうだ。

トモダの高級車「マークZ」の広告業務は、それまで連広が一手に扱ってきたのに、弘朋社との競合になった。それぞれがプレゼンをした末、弘朋社が勝ち取った。
怒った城田は、はじめは新型マークZの不備を探らせ、不買運動でも仕掛けてやろうかと考えるが、新任の営業局長の奇策を採用し、逆に社員を使って、次々に購買予約をさせた。社員には知り合いを引き入れることまで奨励し、会社から支援金を奮発した。
さらに、パブリシティ費用を連広が負担して、雑誌や新聞といったメディア各社に「新マークZは素晴らしい」という記事を書かせまくる。

すると、どうなるか。
生産が追いつかなくなって、トモダは、手に入らないものを大々的に広告することは消費者への不義であるとして、マークZの広告キャンペーンを中止にし、すでに押さえてあった広告枠は、別の車種に切り替えたのであった。

これ以上書くとネタバレになるから控えるが、こういった逸話が次から次に出てくる。

大企業との広告業務以外にも、オリンピックや都知事選といった国家を動かすようなイベントに連広がどのようにかかわってきたのかもわかるようになっている。

成田豊氏は、僕が電通に入社したときの社長であった。
平社員の僕からしたら、会話したこともないエライさんだったが、僕が入社した年(二〇〇一年)に、電通の株式を公開し、汐留本社ビルを建て、グローバル化に舵を切った、いまの電通の方向性に大きく影響を及ぼした社長である。

「ボンクラ社員がなにを」と言われるだろうが、実は、僕は株式公開と新社屋建設は誤りだったと当時から考えていた。
乱暴に簡略化して言うが、姿の見えない“ステイクホルダー”や、フランスの建築家に設計させたがために、車寄せが日本と逆方向にカーブしているようなビルディングに重きを置いたがために、そこで働く人間たちがないがしろにされていった、その「終わりの始まり」であったと考えているからだ。

本作中にも、九一年に実際にあった若手社員の自殺が出てくるが、結局そこから大した方向修正もせぬまま、「クライアント・ファースト」で突っ走り、一五年の女性新入社員の自殺というショッキングな事件に帰結することになる。

電通上層部の暗躍についてエンタメとして読みたければ『帝王の誤算』を、電通平社員の現実に泣き笑いしたければ拙著『広告業界という無法地帯へ』を読まれたし。と、自分の宣伝もさせてね。

『帝王の誤算』で、ひとつ、印象に残ったセリフがある。
東京へのオリンピック再誘致の事業を、連広が競合を経ない随意契約で受注し、それを議会で突かれた石原慎太郎氏と思われる夏越議員が言い放つ。
「君たちは知らないかもしれないが、こういう仕事をできる会社は日本にひとつしかないんだ。連広だよ」

それは、まぁ真実なのではないかと思う。なんでも屋たりえるネットワークと、能力ある社員を保持していることは事実だろう。
ワタシが尻尾まいて逃げ出すくらい優秀な人が多いのだから。わっはっは。

f:id:ShotaMaeda:20190630152448j:plain鷹匠裕 著『帝王の誤算』(角川書店

 

■田中泰延 著『読みたいことを、書けばいい 人生が変わるシンプルな文章術』(ダイヤモンド社

さて、トリは、僕の電通時代の先輩であり、盟友のひろのぶさんである。「泰延」という漢字を変換するために、「泰平」と打って一字消し、「延長」と打ってまた一字消すのが面倒くさいから、ひろのぶさんと表記することにする。

書きたいことや書けることはたくさんある。
しかし、ツイートがおもしろすぎてフォロワーが五万人に達しようとしているひろのぶさんの初の著書の内容がいかに素晴らしいについては、ほかに多くの方が競うように、筆を尽くして書いているから、「本当のことしか書かない」コラムニストとしての僕は、以下の二点にのみ言及しておこうかと思う。

 

これを著者本人に読まれると失礼でアレだが、僕はいつもこの本について人と話すとき、こう言う。
「おもしろかったよね。でも、あれ、ギューッと詰めたら、厚さこれくらい(人差し指と親指で四ミリくらいを示す)だよね」

もちろんわかっている。その中に大切なことがたくさん詰まっていて、それをエンターテインメントとして、語りかけるように一気に読ませるひろのぶさんの技量と才能がほとばしるようなのである。

本というのは、書けと言われて一生懸命書くと、編集者に「減らせ」と言われる。
「こんな厚い本は、もう人は読まない」、「文字ばっかだと売れない」というのである。

だから、『読みたいものを、書けばいい』は、構造として革新的だな、と感心した。
大きな余白、でっかい文字、ひろのぶさんのウェブ記事の特徴である、そこここにある太文字。それでも内容は濃密この上ない。
QRコードで過去の記事をスマホで読める仕組みも、田中泰延氏にはじめて触れる読者には親切である(日本の人口の半数以上はツイッターなどしていない)。
ダイヤモンド社の編集者である今野氏の手腕なのかな。

 

もう一点。僕は「文章がうまくなる方法」というものには否定的なのである。そのほとんどは遺伝子によって決まっていることは科学研究が示唆している。
つまりは才能なのである。

はじめにひろのぶさんから「なんか、文章術の本を書かないかって依頼が来て、書こうと思うねん」と聞かされたときは、正直に言うと、
「そんなインチキなもん書きたいわけちゃいますやろ」
と、僕は思ったのだ(今野さんゴメンネ)。

かくして世に出たこの本を、僕は新幹線の中で読んで、新大阪から東京に着くまでに読み終えた。

ぜんぜんインチキは書いてなかった。
それどころか、ひろのぶさんは安易なビジネス書やハウツー本の類を嘲笑って、それこそ「凄味」すら放ってこれを書き切っていた。

ものを書く上での基本スタンス、なぜ書くのか、どうやって書くのか、人を惹きつける書き方とは。これらの「書く」はそのまま「生きる」に置換可能だ。

最後は才能、という自説を僕は変えないが、それを賦活するにあたり知るべき大切なことが凝縮されている。

実を言うと僕は、新幹線での読書の終盤にさしかかる、小田原を通過するあたりで少し涙した。

「ひろのぶさん、やったな……」という感慨が、ここ二、三年という年月の重みをともなって押し寄せてきたのだ。

僕は「死ぬほどやりたいことがあって」、四年前に電通を辞めた。以来、そのひとつひとつを実現するべく、チマチマと活動している。
ひろのぶさんは「死ぬほどなにもやりたくなくて」、二年半前に電通を辞めた。
ご自分でもそう公言しているが、人に「あれ書いて」と頼まれれば書き、「ここに来て」とイベントに呼ばれれば行き、自分からなにかをしたいと考える人ではまったくないのだ。

 

 だけど、人生それだけで済むわけはなくて、
「もうセブンイレブンで働こかな……」
と自嘲していたこともある。
僕は、仕事場の近くのコンビニを指して、
「あそこなら、名札に『けいこ』って書いてある白人のスタッフがいますよ!」
「よし! そこにするわ」
「裏手のあそこなら、平日は美人の人妻が働いてますよ!」
「じゃあ、そこにするわ!」

我々はいつもそうやって笑っては、問題を先送りにする。

ひろのぶさんと僕は、たまにバーで飲むが、いつも楽しい話をしているわけではない。
たいがい、肩を寄せ合って、暗い顔してウィスキーの味がするそれぞれの孤独を舐めているだけだ。上田豪さんも同じような顔して、そこにいる場合もある。

ああして、横に並んでボソボソと話して過ごした夜の数々が、涙で滲む車窓に映し出されるようだった。

 

案の定、この本は高い支持を得ているようで、大きな増刷がなされた。
ひろのぶさんに「おめでとうございます!」とメッセージを送信したら、こんな返信があった。

「ありがとう。とりあえず、セブンイレブンに出す履歴書は引き出しにしまいました」

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田中泰延 著『読みたいことを、書けばいい』(ダイヤモンド社)

「パンツの中のタイガーが、ネコになったら」

「やっぱり君たちはなんにもわかっていない」
とエラソーに思うことがあったので、この際エラソーに書いてしまおう。

それは、みんな大好き、チン○の話である。

先日、飲み会で女性と話していたところ、彼氏がEDなのだという。言わずと知れた、勃起不全である。
そのため性交渉はなく、彼女は不満に思っているそうだ。

彼女は言う。

「ワタシとはしたくないみたいなんです」

それ! 相手がEDに苦しむ女性はたいていそのように言う。ちがうんだ。

いや、知らんけど。本当にしたくない人も中にはいるだろう。でも、ちがうんだ。

他人の心中を勝手に決めつけることはできないので、自分の経験から語ろうと思う。

僕にも若い頃に勃たなかった経験が何度かある。

あの苦しさと申し訳なさを言葉にするのはむずかしいのだが、一体どうなっちまった感じなのかを表現すると、
「まるでチン○がネコにでもなったような」感覚なのである。

こちらはしたいのである。なのに、股間のモノはまったく言うことを聞かず、一切の意思疎通ができないのだ。それはまるっきり、呼んでも振り向きもしないネコのようで、おいでと言っても来るわけないし、撫でても摘まんでもデコピンしても反応せずに、知らん顔なのである。
そのくせ、いらん時に元気一杯でニャーニャー鳴いては、飛び回ったり、あちこち引っかき回したりするのである。本当に気分次第で、自分勝手なのである。

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ほかの面ではしっかりした人なのに、セックスに関しては見境がないタイプの男性を「下半身は別人格」と表現することがあるが、それは躁的な意味、鬱的な意味、両方で多くの男性に当てはまるのである。

セックスに臨むにあたり、男は相当なプレッシャーに晒されている。それはもう、卑屈な広告代理店の営業マンがクライアントに接するが如くである。

どういうプレゼンをすれば気に入っていただけるだろうか……。
今夜中になんとか納品できるのだろうか……。
クライアントさんがイライラしないように、お待たせすることなくタクシーが来るだろうか……。
弊社はサイズ的にこんなものなのだが笑われないだろうか……。
いや、規模の問題ではなく、ハード面でご不満点などおありにならないだろうか……。
御社のスピード感的に、「あれ? もう終わったの?」と言われないだろうか……。
「なかなかよかったよ」とお喜びいただけるだろうか……。
「また次も頼みますね」とご指名がかかるだろうか……。

心配事は尽きないのである。

あれもこれも気にしつつ、クライアントのご意向とご機嫌とご要望に神経をすり減らしていると、うっかり弊社の大事なスタッフへの意識がおろそかになってしまいナニがアレしないのである。
セックスというのはちんちんでするものではなく、脳でするものだから、あまりマルチタスクがすぎると、この複雑で不可解な精密機械がたまに誤作動するのである。

「君たちみたいに、ビッチャビチャになって寝っ転がってればいいわけではないのだ」
と喉まで出かかるが、それを口に出しては(出とるやないか)どーせ叱られるだろう。
男女間でセックスのしんどさを言い争っても仕方ない。お互いの本当のところなど、完全にはわかるはずがないのだから。

であるなら、僕は相互理解に少しでも寄与できるよう、このコラムのつづきを書こう。

 

あれほど威勢よく吠え猛っていたはずのタイガーが、ネコちゃんのように無関心になってしまった時、以下のような反応はやめてほしい。

①「ワタシとはしたくないの?」。

冒頭に挙げたように、これは言われると困る。
「ちがうちがう。したいんです」
「じゃあ態度で見せてよ。なにそのぐたっとした態様は」
「いや、ホントなんです」
「上の口ではそう言っても、下のチン○がホラこんなに。やる気ゼロやないか」

やめてあげてください。

②ため息。
一言も発することなく、最も傷つけることができる対応だ。

③舌打ち。
さらに、死にたくなります。

④「触ったら勃つ?」
ダメだと思います。ここが勘違いしやすいポイントでもあるのだが、気持ちいい、よくない、とは無関係なのである。だから、アレコレしてみても、落ち込んだ男はさらに無力感に襲われ、腕に覚えがあったかもしれない女はこれまで培った信頼と実績に疑念を持つことになる。
相手はネコなのである。こちらの思い通りの動きをしてくれると思ったら大間違いなのである。
少なくともしばらくの間は、たとえ国連でも多国籍軍でも岩合光昭さんであっても、なにも手出しできることはないのだ。

 

では、せめてどういう言葉をかけたらいいのか。
男性として、僕ならこう思う。

彼は万策尽きて、女から顔を背けるように横臥する。屈辱感と失望が、千本の針のように背中に刺さってくる。
「ごめん」
かろうじてこれだけを言葉にする。

気まずい沈黙が、ふたりの間に峡谷のように深く、砂漠のように果てなく、支配を強めていく。
おもむろに、彼女はうしろから男に覆いかぶさると、乳房を彼の背に押し付けて、腕を体に回す。彼女の吐息が、首筋にそっとかかるのを彼は感じる。

彼女は、小さな呻り声をのどから漏らす。

彼はそれを、パンティを足首にひっかけただけの、恥ずかしい姿にさせられた女からの不満の表明だと受け取り、自分の不甲斐なさに身を縮める。

ところが、

「じゃあ……」
彼女は、あたかも名案でも思いついたように、彼の耳元にこう告げるのであった。

「また今度しよ♡」

 

どうだろう。(前号にひきつづき)ここまで書いて、オレはビッチャビチャだが、どうだろう。
このひと言ほど、男を救い、許し、受け容れる言葉があるだろうか。

セカンドチャンスがある。来週か、来月か、来年か、来世かわからないが、これを人は希望と呼ぶ。
男というのは、一般に描かれたり、思われたりしているよりも、脆く、不安定な生き物である。

そして、パンツの中にネコを飼っているという、滑稽な連中なのである。

そのようにお考えになり、SNSでネコの画像を漁るように、チン○により一層の興味を持っていただき、その不可解な習性について知見を高め、将来に役立ててほしい。

私はそう願いつつ、静かに筆を擱くのである。

「『抱いてください』への長き道のり」

先月はじめにまた上田豪さんと田中泰延さんと、ヒマナイヌスタジオ神田より、飲みながらのトーク配信を行った。
 

www.youtube.com

一応、テーマらしきものを設定して、「僕たちだってこんなことで悩んでる」ということで事前にお悩み募集もした。たくさんのメールをいただいたのだが、そのすべてにお答えできずすみませんでした。

メールをとりまとめるのは僕の役割だったので、「これは取り上げよう」と考えていたにもかかわらず、本番で酔っ払いすぎて忘れてしまった質問がある。
スタジオに入る前に、みんなでウィスキーやらビールを買いに行って、僕たちははじめ普通のジャックダニエルズを選んだ。アルコール度数は四〇だから、まぁふつうのウィスキーだ。
しかし、ひろのぶさんが「せっかくだから」とキリンの富士山麓シグニチャーブレンドというボトルに替えた。これは芳醇なウィスキーだが五〇度あり、しかもチェイサーを飲むのを忘れていた僕には、かなり効いたのである。

開始七十分すぎたあたりから明らかにスローダウンして、最後はヘロヘロになっているのが、恥ずかしいくらいわかってしまう。

さて、いただいていた質問は、四十代の女性からで以下のようなものだった。

「『抱いていただけませんか?』というキラーフレーズを、いつかちゃんと言いたい相手がいます。友人です。
いやー、言っちゃっていいっすよねー?
だって好きなんだもん。そういうの、重くならず、でもキチンと言えるのが、カッコいいオトナってもんではないでしょうか?
ダメか?
ちなみに、抱いてほしいけど、つきあうとかは考えていません。もっと仲良くなれればいいだけです。

キラーフレーズの使用上の注意をご教示ください」

この方は、僕がちょうど一年前に書いた『#metoo時代のHow to SEX』というコラムがお気に入りだそうで、小さくプリントアウトまでして手帳に挟んでいるとのこと。
お気に召して幸いです……。

僕はさしてモテてきたわけではないし、青春時代などおよそモテとは無縁にすごしてきた。もちろん女性から「抱いてください」などと言われた経験はないので、勝手な想像を交えて、この場で僕からの回答を共有しようと思う。

新宿鮫』シリーズで有名なハードボイルド作家の大沢在昌さんが過去にエッセイで、「自分は二十五才まで、女性にも性欲があることを知らなかった」と書いていた。
僕はそれを二十五才で読んで、「オレは今でも知らんわい」となんだか悔しかった。思えば、女性に断られつづけてきた半生であった。

「悲しさの正体とは『乖離』である」と以前に書いたことがあったが、つらさの本質というのは「拒絶されること」である。

告白した相手に断られる。受験した大学に落とされる。面接で不採用になる。会社から解雇される。
これら、拒絶されることというのは、のちのちまで根に持つほど、人にとってキツいのである。
特に、恋愛においてフラれるというのは「あなたはもう私の人生にとって必要がない」「出て行ってほしい」という宣告である。セックスの誘いを拒否されるというのは、「お前なんかに体を触られたくもない」というメッセージである。

恐ろしい。わかったからもうそれ以上言わないでほしい。

だいたい男の方から行動を起こしては討ち死にするものだが、ここで引き下がらない男というのは一生モテないか、訴えられて社会的にも抹殺されるのでやめた方がいい。権力や力関係を利用して、断れない状況へ女性を追い込む男も多くて、これが社会問題となった#metooの淵源であった。

 

さきほど、デザイナーをしている友人の平くんが来て、「プレゼンで、案を三つ提案すると、すんなり決まりますね!」という当たり前のことを、さも大発見のように話して機嫌よく帰っていった。
僕は「なにをいまさら……」と苦笑しながら、「プレゼンというのは、案の提案のためだけにあるのではなく、説得の方法だから」と話した。紙芝居を披露するように、段階を踏んで、納得させたい結論へ導くのである。

女がロマンチックな雰囲気を求めるように、男だってストーリーに酔うということはある。

「抱いていただけませんか?」にたどり着くまでの道のりというのは遠い。しかし、千里の道も一歩から、しかない。いきなり素っ裸で走ってくるやつはいないのである。

バーならテーブルではなく、必ずカウンターに座るのだ。人間にはテリトリー意識というものがあり、それは眼前から扇状にひろがる空間である。よって、目の前に座られるよりも、隣りに座られる方が緊張度が低いのである。

お酒を注ぐというのは、英語で「pour」である。この単語には、「吐露する」という意味もある。
一杯の酒が注がれるたびに、心の中からもひとつ、とどめおかれた思いを言葉にして出さなくてはいけない。

「抱いてもらえませんか?」

まだ早いっちゅうねん。いきなり素っ裸で走ってくるなと言っているだろう。

仕事の話、住んでる町の話、旅した場所の話、流行ってる服の話、自慢の靴の話、好きな食べ物の話、最近読んだ本の話、泣いた映画の話、アホな友人の話、子供のころの話、加齢による現象の話、登れなかった山の話、知らなかった歴史の話、取り繕えなかった失敗の話、叶わなかった夢の話……。

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これくらいをすれば、だいたい話すことももうないだろう。できるなら、七:三くらいで相手にしゃべらせよう。あなたに話すということは、あなたをそれだけ受容しているということでもある。

ウィスキーの三、四杯も飲んで、そろそろ滑舌もあやしい。

「はい♡」

なにが「はい♡」なのかわからないが、当たり前のように手を差し伸べて、手をつなぐのだ。それはあたかも、マラソンを走り終えた選手をバスタオルで包む係員のように、当然の動きとして行なうのだ。

手をつなぐと、もしかしたら散々言葉を連ねておしゃべりした以上に、さまざまなことがわかる。体温も、手指のかたちも、爪のなめらかさも、ぎこちない動きも、握り返す力の具合も。
その中から読み取るべき重要なことは「自分は拒絶されているかどうか」である。

拒絶感が伝わってこないのであれば……、
「抱いてもらえませんか?」

まだ早い! 素っ裸とは言わないが、ブラを振り乱して走ってくるやつはいない。

ナイショ話をするように、顔を寄せて、耳元にささやいてみる。

「ねえ、ねえ……」
「ん?」
「あのさ」
「うん」

ここで、つないだままの手にぎゅっと力を入れて握る。

「前から思ってたんだけど……」
「うん」
「今夜」
「うん」

秋(とき)は来た。多少の酒くささは大目に見るので、吐息が耳朶にかかるくらい、さらに一歩、接近するのだ。

「抱いてもらえませんか?」

 

どうだろう。オレは自分で書いててビッチャビチャだが、どうだろう。

「え、えーと、明日、ボク出張で朝早いから……ごめん」

こういう、人の気持ちがわからない、不甲斐ない男も最近の世の中にはいるから、覚悟はしておいてほしい。

そんなやつに限って、来なんだらええのに、次回も誘えばのうのうとやって来る。
そんな時こそ、待ち合わせ場所に素っ裸で走っていって、テイクダウンして、駆け込み寺だろうが、連れ込み宿だろうが、引っ張り込んでほしい。

グッドラック。

「面接にはオールバックで行きなさい」

僕が就職活動をしていたのは二〇〇〇年の春で、氷河期と呼ばれる期間(一九九三~二〇〇五年)の中でも、有効求人倍率で見れば最悪の数値を叩き出した、超がつく氷河期であった。
そういう時節に難関といわれる企業に入社したのだからエラいだろう、と自慢したいわけではない。僕はまともな就職活動はしていないのだから。

入社試験を受けた企業は二社。業界一位の電通と三位のADKだけだ。二位の博報堂はぼーっとしているうちに〆切が過ぎていて受けられなかった。が、なんとなく「オレは博報堂っぽくはないな」と感じてはいたので、受ける気もなかったのかもしれない。

テレビ朝日エントリーシートを提出しに行ったような記憶もあるが、その後なんの音沙汰もなかったので、書類審査で落ちたのか、そもそも書類に不備があったのか、今となってはわからない。

とにかく面接までこぎつけたのは二社で、内定をもらったのは、そののちに入社した電通だけだった。

僕は面接には自信があった。経歴が異色で、話すべきネタがいくつかあったからだ。
アメリカの大学をひとつの単位も落とすことなく卒業して、法政の大学院で社会学を専攻しながら、早稲田のお笑いサークルで一応、大手芸能事務所が仕切る学生大会の決勝に残る程度の実績があった。

monthly-shota.hatenablog.com

面接にはスリーピースのダークスーツを着て、坊主頭でのぞんだ丸刈りにしたのは奇を衒ったわけではなく、その少し前に、親友である男に対して暴言を吐いてしまいお詫びの印だったのである。

彼とは当時同じバイトをしていて、よく話した共通の話題は進路についてだった。彼は頭脳明晰で、スポーツ万能で、しかもとにかくおもしろかった。こんなに人を笑わせられる人間がいるのか、というくらい昔からユーモアのセンスが抜群だった。

将来はどういう輝かしい道に進むのだろうと思っていたら、公務員になると言った。
若い僕は当時、公務員なんて夢のない、ただ安定だけを求めるつまらん仕事だと完全に見下していたのだった。彼のような人間的に魅力あふれる男に、つまらん道は選んでほしくない一心で、僕は公務員という立場を侮辱する言葉を並べ立てた。

ほとんど怒ったところを見たことがなかった彼が、突如、烈火のごとく怒った。
「俺の父親は公務員だ! だけど区役所を変えようと戦ってきた人で、出世もしなかったけど、そういう公務員だっているんだ。十把一絡げに馬鹿にするんじゃねえ!」

僕は何事も思い込みで断じる自分を恥じた。彼の志望先だけでなく、彼の父親を侮辱するようなかたちになってしまったのである。
あまり反省ということをしたことのない不遜な人間である僕であったが、彼の言葉は僕の胸を切り裂いて、背中から突き抜けた。切り口は鮮やかすぎて、血も出なかった。

だから僕は素直に謝った。「ごめん。言いすぎたと思う」

バイトが休憩時間になると、僕は近くの床屋さんに飛び込んで、頭を丸めた。

 ちなみに、僕の親友は消防隊員という公務員になり、いまは特別救助隊員(レスキュー隊)の教官をやっている。

丸坊主になって戻った僕に、バイト先の上司は「あら、前田くんどうしたの?」と目を丸くしたが、僕は「気分転換です。へへへ」と笑ってごまかした。

家に帰ると、おかんは「あんた、その頭なによ。まるで少年院から出てきたみたいじゃない」と言って、珍しそうに坊主頭を撫でた。

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「面接もそれで行くの、あんた?」

面接のことなど、ちっとも考えていなかったのだ、僕は。
親友を傷つける言葉を吐いてしまったけど、何度も「ごめん」と謝るのは憚られ、ただ、坊主にすることで、この件は終わりにしてほしかったのだった。

ところが、企業に送った履歴書には、髪の毛がある頃の写真が貼ってあった。
ADKの一次面接に赴くと、スーツを着た二人組の社員さんはギョッとした。ひとりが、僕の顔と、手元の書類の写真を見比べて、
「ずいぶん変わりましたね……」
と言った。
僕は用意していた答えで淀みなく応じた。
「はい。パッケージは変わりましたが、中身はいっしょです」

一次面接はなんなくパスした。

二次が筆記試験だった。
広告会社の筆記試験なんて形式だけの、つまりなんらかの理由をこしらえて人を落とすための、常識問題なのだろうと高をくくっていたら、そうではなかった。その年のADKの筆記テストはマジだった。
その前年に、旭通信社と第一企画が合併してアサツーディ・ケイとなり、業界第三位に躍り出たADKは、業界内外からの期待も高かったし、それに応えるべく本気でいい人材を獲得しようとしていた。それがひしひしと伝わってくるような試験だった。

だいたい、広告会社を志望するようないい加減な学生に
「経済紙でよく見かける『ベア』という言葉は、何の略ですか?」
などという問いを出してどうする、と思うのだ。
経済紙など読んだことがなかったボンクラには答えようがない。まず前提がおかしいと考えた僕は、このように回答した。

「見かけない」

ADKには二次試験であえなく不採用となった。悔いはなかった。

電通の試験についてはなにも小細工はしていない。誰からの「推薦状」もないし、面接では質問に対しまっすぐ答えただけだし、なるべく相手の目を見てはっきり話しただけだ。

入社して何年かすると、今度は僕が面接官をすることになったし、OB訪問の学生とも何人もお話しした。
アメリカで大学を出て、法政の大学院は中退になっている僕には、OB訪問してくるような人は本来いないのだが、たまに先輩から「君の方が学生と年も近いから話も合うやろ。会うたってくれへんか」と、役割が回ってくるのだ。

余談になるが、最近いくつかの企業で、OB訪問の女学生が社員に性的暴行を受けた事件が報じられていたのを読んで心が痛む。モテないやつというのは、あらゆる手段を使って、一度でも多く、一人でも多くを相手に、セックスをしようとする。
立場を使って、カネを使って、権力を使って、酒を使って、策謀を使って、暴力を使って。

四〇代も半ばにさしかかれば、学生なんてほとんど子供であることがわかる。子供にあれこれ言っても正しい対応は難しいと思うので、助言や諫言めいたことはほかに譲るが、この「あらゆる手段を使って」という点は強調しすぎることはないと思う。

 

閑話休題。OB訪問してきた男子学生に、僕からいつも伝えるのはこういうことだ。

「面接にはオールバックで行きなさい」

自分が一番いいと思うスーツを着て、一番カッコいいオールバックにして、自分のことを堂々と話してくる、これ以外に小賢しい「今日から実践! 就職面接に勝つ10の方法」とか読んでももう遅いんだよ。
おじさんたちは小賢しい若者が一番嫌いなんだよ。なぜなら、やがて自分を追い落とす存在になるから潜在的脅威なのだよ。

この前も学生さんと僕の店であるスナワチでお話ししていて、僕はおもむろに
「なんで君はマッシュルームカットしてるんだい?」
と訊いた。
本人はマッシュルームカットにしていたつもりはなかったみたいなのだが、君がマッシュルームカットかどうかはこちらが決めることなので、君はまちがいなくマッシュルームカットだったのである。そうでないと、世の中にハゲた人はいないことになる。

いや、普段どんな髪型にしようと人の勝手である。しかし、スーツを着る時にはオールバックにするものなのである。せめて額は出そう。

試しに”men in suits”で画像検索してみればわかる。
このことについては過去にも書いたけど、それはワンセットなのだ。

そして、オールバックにすることにはそれなりの意味もあり、自分の顔をよく見てもらえることになる。面接というのは自分のことを見せて、お話しして、お伝えしに行く場だ。そのために履歴書があって、これまでの経験や意見を開陳するのである。その時に顔を隠していたら、チグハグな印象を与えるだけではないか。
恋愛と同じで、自分を開示せずになにかを与えられることはないのだ。

いまどきオールバックにして来る就活生なんていないって?
だからやるんだよ! 

僕は若者に言いたい。なんだよ、リクルートスーツって。そんなもの世界のどこにもないぞ。勝手に日本人がでっち上げたもので、そんなものを着なくてはいけないルールはない。

群れの中からどのように目立つのか、その方法を考えなくてはいけない。もちろん、面接で足を組んでタメ口でしゃべったら目立つだろう。でも落とされることくらいはわかるだろう。

では、どうやったら好ましく目立てるのか。手はじめにオールバックしかあるまい。
それ以外に、君にもオレにも、すぐに目立てる能力などないのだ。

オールバックというのは、(ハゲさらばえる前に)男がたどり着けるひとつの到達点だ。そこはかとないインテリジェンスが感じられて、最低限の接遇は提供したくなるディグニティーが醸し出されて、トラディショナルでオーセンティックな思想を持つまともな男に見えるものだ。

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わけもなく偉人感が出る


これだけ語ればきっとわかってもらえるだろう。

それでは、就職活動中の学生諸君の健闘を祈ります。
「前田さんの言った通り、オールバックにしていったら内定もらえました!」という報告をお待ちいたします。

「オールバックにしていったのに落ちました!」という場合には、
「それはオールバックのせいじゃねえだろう」
と返します。

 

P.S. 整髪料はクールグリースがおすすめです。

「カウボーイは、よく眠る」

英語で、テントやタープ(屋根として張る布)を使わずに野宿することを「カウボーイ・キャンピング」という。

十九世紀の後半、アメリカで大陸横断鉄道が東部から西部へと敷設されていくと、肉牛を流通させるために、カウボーイたちは牛の大群を馬で追って、歩かせて歩かせて、鉄道の駅がある町まで運んだ。

何百マイルも移動させるためには、数ヶ月間そうやって荒野の旅を続けなくてはいけない。現在のようにあちこちにモーテルはないし、今でもアメリカには町に行き当たらない広漠とした土地がいくらでもある。

こうした牛追いは「キャトル・ドライブ」と呼ばれ、自由でワイルドで、過酷な生活だった。

寝る時は、ベッドロールという、キャンバス地に毛布の裏地がついた、つまりは寝袋にくるまって地面で横になった。脱いだジーンズをくるくる巻いて枕にし、風が立てる小さな物音と、近くで休む馬の息遣いを聞く。仲間のいびきもあったろう。
満天の星以外はなにも視界になく、夜空に落っこちていくような心許なさを感じたかもしれない。

アウトドアを愛好する人ならわかるだろうが、雨や寒さの問題は当然として、日本でそれをやろうとすると、朝起きた時には朝露でびしょ濡れになってしまうだろう。

テキサスやニューメキシコといった、乾いた土地ならではの方法だと思う。

私も一度だけ、カウボーイ・キャンピングをしたことがある。
拙著『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』(旅と思索社)の第1章を参照いただきたいが、その日は、ジェイク一家と馬で小一時間も移動して、夜にはウィスキーをしこたま飲んだから、思ったより苦もなく眠りに落ちることができた。

朝、目覚めた時には、周囲には牛の群れがそばの池に水を飲むためにやって来ていて、ビビったものだ。

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私は会社員をしていた頃は、夜なかなか寝付けない体質だったため、さまざまな方法を試した。ベッドタイムにメラトニンというサプリや、睡眠補助薬を服用したし、酒を飲んでみたり、ストレッチをしてみたり……。
眠れなくて、寝返りを繰り返して、うつ伏せになったり、また仰向けに戻ったりして、それでも眠れなくて、時計だけが着実に3時を指し、4時を指す、あの辛さといったらない。疲れていないわけではないのに、なんで眠れないのか、自分を呪う気持ちばかりが募る。

会社を辞めて、40才を目前にして無職になり、カナダの牧場でカウボーイをしていた時は、夜は10時から11時の間にベッドに入り、朝は6時半に起きた。
たっぷり8時間眠ったし、だいたい即座に眠れた。

広告会社での仕事とは、頭の使い方が全然ちがった。
机で唸るような時間や、会議でイライラするようなことや、パソコンを前にため息をつくようなことは、(少なくとも牧場主ではない)カウボーイの仕事ではまったくなかった(ジェイクは昨年に牧場主を亡くしてから、事務仕事もしなくてはならず、ストレスが増えたと吐露する)。
ただ、いかに効率よく、失敗することなく、できれば美しく、その日の仕事をやり終えるかは常に考えていた。知らないことや、できないことばかりで、自分が無能に思える夜が何度もあった。

体については、これまでは「使う」といううちに入らなかったと思えるくらい、よく使った。一日中牧草地でトラクターを運転する日もあったが、それにしたってボコボコの地面でお尻が跳ねるような運転席でバランスをとったり、後部に取り付けたマシーンがちゃんと作動しているか確認するために、首と体をよじって何十回も振り返ったり、結構体力を使うのである。

その他、重たいものをいくつも運んだり、牛糞まみれの場所を歩いたり、小川を飛び越えてまた歩いたり、馬に乗ったり、書くだけなら楽しそうなひとつひとつの行動が、ただのサラリーマン経験しかない都会の軟弱な男にはキツかった。

私が寝泊まりしていた部屋は、牧場主の家屋の地下にある客室で、隣りに洗面所もシャワー室もあった。
一日の仕事を終えて、手を洗いに行って鏡を見ると、日焼けと土埃で赤黒くなった自分の顔がある。夕食後にシャワーを浴びて汚れを落とし、ちょっとだけウィスキーを飲む。そして日記を書く。

牧場主のハーブは、あくびをして閨房に引っ込む。私は地下室に降りて、腕立て伏せをしてから、歯磨きをして、ベッドで少しだけ本を読む。
あとは夢も見ずに深く、深く眠る。

陳腐な表現しか出てこないが、「人間というのは、本来こうして生きてきたのではないか」という感慨があった。

食べて、動いて、眠る。
よく働くために、よく食べて、また働くために、よく眠る。

なお、ハーブは午前の仕事のあと、昼食を食べてから、カウチに寝そべって午睡をとる。

20キロほど南へ行ったところにある牧場で働く、日本人カウボーイのジェイクも、昼食後は同じようにしていた。
お互いは、牧場の中で日々どのように働いているかを知らないから、ジェイクは僕の話を聞いてはじめて「ハーブもそうなんや」と知ったらしい。

 

“Each night, when I go to sleep, I die. And the next morning, when I wake up, I am reborn.”
(毎晩、眠りにつく時、私は死ぬ。そして、翌朝目覚める時、私は生まれ変わる)
こう言ったのはマハトマ・ガンディーだが、毎日懸命に働く者にしか言えない言葉かもしれない。
そして、死を意識しないところに、本当の生はないのだろう。

ところで、いまの私はといえば、毎晩ベッドに入ってすぐに眠れる。
たいして働いているわけではないので、人として恥ずかしいくらいに……。

 

(了)

このコラムは、ジェイク糸川監修、前田将多著でnote.muに載せている『カウボーイの独り言』という有料連載コラムの第5回を転載したものです。
ワンコインで今後も含め全コラムがお読みになれますので、もしよろしければどうぞ:

note.mu

「誰もしたくない隣国のハナシ」

その方は、共同通信社から社費留学でフランスの大学に在籍して語学を身につけ、その後パリ支局長を務めて、新聞社に移籍。記者活動を通じて、日本のピューリッツァー賞ともいえるボーン・上田記念国際記者賞を受賞し、パリ在住二十年以上の実績を評価されて日本記者クラブ賞、菊池寛賞も受賞。フランスに関する多くの著作があり、現在でも現地に住み旺盛な言論活動をしている。

そういうジャーナリストが、テレビで「フランス人の交渉術」として、
「強い言葉で相手を威圧する」
「周囲にアピールして理解者を増やす」
「論点ずらして優位につく」
と論じた。……と仮定しよう。

これは、「差別的だ!」「ヘイトだ!」と、日本国内で問題になるだろうか。

なるまい。

お気づきのように、これはフランスを韓国に置き替えたら、まるっきり一月二十四日にフジテレビ『プライムニュースイブニング』で放送された、産経新聞黒田勝弘論説委員にまつわる一件のことである。

headlines.yahoo.co.jp

ためしに、「フランス人 交渉術」で調べれば、「とことん話し合う、交渉する、主張する(中略)、めんどくさい人達」、「自分たちが世界の中心だと考えている」と書いてある。

アメリカ人なら「『朝令暮改』がアメリカ人のスタイル」、ロシア人なら「多少のルールは破ってもいいと考えている」、「恐ろしく疑い深い」など、それぞれに不名誉なステレオタイプが記載されている。ふむ……。

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しかも、韓国人について言えば、上記の三つの指摘は過去の事案でもって例示できる。
「強い言葉で相手を威圧」したナッツ姫というのがいたし、朴槿恵前大統領は「加害者と被害者の立場は千年たっても変わらない」と宣したし、「周囲にアピール」して慰安婦像を世界のあちこちに建てたし、「論点をずら」すことにより、韓国人サッカー選手が日本人に向かって猿のマネをしたことが、なぜか旭日旗を日本の朝鮮支配の象徴であると断じるという、よくわからない方向に飛躍したことがあった。

ここ最近、立てつづけに外交問題が勃発している:
韓国が、主宰する国際観艦式で、日本の自衛隊護衛艦旭日旗を掲げるのをやめさせるために、「自国旗と韓国旗のみ掲揚するよう」各国に通達し、自衛隊は参加を取りやめ、参加国はどこも従わなかった。

いわゆる元徴用工訴訟で、韓国の大法院(最高裁)が、一九六五年に結ばれた日韓基本条約を無視して日本企業に賠償判決。

自衛隊のP-1機への韓国軍によるレーダー照射問題。
それにつづく、自衛隊機が威嚇飛行したとの主張、
など、次から次に問題が起きるのだが、その都度、なぜか日本人の中に韓国を一方的に擁護する人たちがわらわらと現れ、日本人が韓国の所業を批判すると「ネトウヨ!」「ヘイト!」などと糾弾される。

法と事実に照らし合わせば、今のところ日本が間違っているとは、僕には思えないのだが、それを公に言うことは憚られる雰囲気がこの国にはある。それによって、感情のコントロール能力がアレな人たちは、匿名で、口汚く、執拗に韓国および朝鮮人を罵ることになり、いわゆるネトウヨができ上がる。そして、彼らと一緒クタにされるのが怖いから、正当な言い分であっても人は口をつぐむ。

韓国を批判する際には、必ず「私には韓国人の友人もいるが」と予め断ってから述べる必要があるし、酒場で話すにしても「この中に在日朝鮮人の人がいたらゴメンやけど」とはじめに謝っておくことになる。アメリカ人の血が入っている人だってふつうにいるかもしれないし、配偶者がドイツ人の人もいるだろうに、韓国・北朝鮮にだけはやたらと気を使う。

フランスよりもずっとめんどくさいでしょうよ、韓国の方が。

 

韓国を無条件に擁護して、人権派キドリなのか、リベラル派を自認しているのかわからないが、そういう人こそが韓国を蔑視する意識があることを知った方がいい。そうでないなら、韓国以外のフランスやアメリカやロシアについても、なにかあるたびに毎回「ヘイト!」「ネトウヨ!」と騒ぎ立てなくてはなるまい。ヘイトって、いつからそんなに軽く、守備範囲が広くなったのだ。

歴史上のすべてがとは言わない。国民のすべてがとは言わない。しかし、いま両国間で起きている数々の問題について言うなら、韓国に理はない。

国際的な約束を守っていない(旭日旗は現在も正式な自衛隊の旗で、国際的に日本の象徴とも認識されている。日本支配時代を想起させると言うなら、日本国自体が存続しているのであり、日本そのものを否定しなくてはならなくなる。それこそ人権侵害だ)。
法と国家間の合意に基づいた主張をしていない(賠償問題は、日韓合意で完全かつ最終的に解決している)。
責任を求める対象がちがう(よって、元徴用工と称する人たちへの賠償を正当とするなら、韓国政府がそれをするべき)。
証拠が薄弱。事実が確認できない(あの自衛隊機の画像では証拠にならない)。

 

こういうことを書くと、どういう批判が来るかもわかっている。
「在日の人の気持ちも考えろ」
考えているからこそ、書くのだ。こんな理不尽ばかりを押し通そうとする国の人だと思われるのは、彼らも心外だろう。

(例にならって書くが)僕には、過去に在日韓国人の恋人もいた。現在の問題についてどう思っているかわからないし、少なくとも僕のことは完全に忘れているだろうけど、彼女は日本国籍でないことを「これまで、あなたにしか話したことはないけど」と打ち明けた。彼女にそうさせること自体がおかしいじゃないか。
過去に日本人が差別をしてきたからなのだろうが、それについては我が国にもバカが多くてすみません、としか言いようがない。

「俺の祖父はブラジル人なんだ」と同じ調子で「わたしのルーツは朝鮮半島だよ」と言える世の中にならなくては健全とはいえない。これから好むと好まざるにかかわらず(個人的には安易な人口増加策としての移民は反対だが)、外国人居住者は増えていくわけである。

奇しくも、大坂なおみ選手が、テニスの全豪オープンで優勝し、全米オープンからの連覇を達成したという、めでたいニュースが数日前にあった。彼女は、ハイチ系日本人で、アメリカ育ち。こういうことが当たり前になっていく。

世界の国々を歩いてみれば、純血なんて、数代前の先祖までしか辿れないから根拠もないし、なんの意味もないことがわかる。

以下は「ドイツ人は嫌いだ」というイギリス人男性がDNA検査をした結果のドキュメンタリー映像だ:

www.youtube.com

韓国人、北朝鮮人だけが「話題にしない方がいい人たち」であり続けていいはずがない。
いいことはいい、悪いことは悪い、それだけだろう。

繰り返すが、「かわいそうな韓国」と見下す人たちこそが、異常な擁護姿勢を見せる。もしくは現政権への批判に利用する。

 

筑波大学大学院に古田博司教授という方がいて、大学院生としてソウル大学に留学した経験がある。筑波大で博士号を取得したのち韓国に暮らし、帰国して韓国社会や朝鮮史の学者になった。サントリー学芸賞、読売・吉野作造賞受賞。日韓で統一した歴史見解を模索した試みである日韓歴史共同研究委員として折衝にあたり、前出の黒田勝弘氏同様、韓国に関する著書多数。

この、韓国を知悉した古田博司教授が、いま、韓国についてはこのように説いている。

「教えず、助けず、かかわらず」

 

千年たっても変わらないのは、「この二国は対等な国同士である」となることを願うばかりだ。
対等だからこそ言うべきは言う必要があるし、ウソやごまかしには徹底抗戦しなくてはならない。

リスペクトを払わないのなら、古田教授の教えに従って、日本は新潟から鳥取あたりまでの海に、びっしり高性能モーターを取り付けて、島ごとハワイの方へ逃げたるぞ。
そうできないものだろうか……。

「きみはなにを考えて仕事しているのか」

年末だから、よし、今年あった楽しかったことを振り返ってみよう。悲しかったことは忘れてしまおう。

今年といってもつい先日の話だが、銀座の広告デザイン会社代表をされている上田豪さんと、僕の電通時代の先輩で「青年失業家」である田中延泰さんと、神田のヒマナイヌスタジオからトーク番組を配信させてもらった。

前回の月刊ショータ2018年11月号『テレビって、いる?』の中で、僕は「ふつうのトーク番組が観たい。人と人が、あたかもラジオのように、なんのヒネリもなく話す番組」と書いた。

それを三人でやってみたのである。

二時間の配信だったが、思いの外多くの方々が観てくれて、たくさんの質問もちょうだいした。YouTube版は、アーカイブとしていつでも視聴することもできるので、お時間が許す方は是非どうぞ:
「僕たちはなにを考えて仕事しているのか」

www.youtube.com

なんちゅういい笑顔をするんだ、ひろのぶさんはwww

その中で上田豪さんが
「ふたりに訊いてみたかったことがあってさ」
と切り出して、「大きな会社を辞めて、ひとりでやり出してからの心境の変化」について尋ねてこられたシーンがある(20:43~)。
「たとえば、日々、会社にいたらこうだったけど、ひとりでやってみるとこういうところはいいよな、というところもあるし、こういうところは会社にいた方がよかったな、とかあるじゃないですか」

会社員を辞めて、四半世紀近くが経ち、フリーの立場を経て、デザイン会社の経営者兼プレイヤーをされている豪さんからのご質問に対して、僕はふたつコメントをした。

「『あぁ、オレって本当に人から指図されるのが嫌いだったんだな』ってことがわかりました」

もうひとつは、
「サラリーマンでいた時に思っていたことが、自分の立場が変わると、まったく考え方が変わりますね。サラリーマンとして広告業界とか電通とかにいろいろ言いたいこともあって、『広告業界という無法地帯へ』という本も書きましたけど、また経営者になると意見がちがったりするんですよね」
「会社員というのはどこまでいっても使われてる人間で。だけど会社に入って何年かたつとそういうことって忘れてしまうから(中略)いつの間にか『この会社は、もしくはこの部署は、俺がいるから成り立っている』という思い上がりをしはじめるわけですよ」

話したことを文字に直すとエラソーに聞こえるので補足説明をすると、僕は決してあの本に書いたことから変節したわけではない。

ただ、会社員としての目以外で、物事を見られるようになった。会社員としての、安定という心の平安も、人がつくったルールの下で働くストレスも、それ以上どこへも抜け出せないような行き詰まり感も知っている。
ひとりで働くようになって、自分の考えでいかようにも舵を切れる自由も、かと言って目的地にまっすぐたどり着けるわけでもない焦燥感も、これより先がわからない不安も身にしみている。

僕はスナワチというレザーストアを大阪に持ち、文筆業もやり、たまに広告系の仕事も依頼があればやる。そのいずれにも本業・副業という意識はない。なぜなら、僕の仕事は前田将多をやることだと考えているから。
だから、どこへ行っても仮面はかぶらないし、なるべく僕以外の人物を演じないように心がけている。

サラリーマンのストレスというのは、この点、意に反したことをしなくてはならなかったり、逆に、よかれと思ってやろうとしたことを止められたり、好きでもない人のためにニコニコしたり、愛情もない人の出世や組織の発展のために自分の人生の一部を切り取って捧げなくてはならないことにあるのではないか。

そう思うなら辞めていいと思うんだけど、会社を移ったところでそのあたりは似たり寄ったりだぞ。人に使われるというのは、「人手が足りない」という表現からもわかる通り、原則的には、きみの心や頭がほしいのではなくて、手とか足とかの部分を対価と引き換えに渡すことだから……。

田中泰延さんは「会社っていうのは誰かが野望を抱いて起業したもので、お前にも少しお金を分けてやるから俺の野望を手伝えよ、って誘われてちょこっと手伝う、ていうのが会社員の本質ですよね。みんな、そこに気付いてないから、会社に入るとしんどくなっちゃうのでは」と言っている。
この記事は必読です。
「仕事のやりがいって、ホントに存在するの? 青年失業家・田中泰延のはたらく論」

ten-navi.com

なんでこんな、働く人の気が滅入るような話をわざわざ書くかというと、なぜかスナワチには悩み相談室のように、なにか僕に尋ねたいことがあってやって来る人がままあるからだ。

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元々入りにくいスナワチが、僕が目をケガしたことにより最も入りにくくなった日の一枚

確かに、店をつくる時に、建築家には「イメージは探偵事務所です」とお伝えしたが、本当に依頼人が来るとは思ってないじゃん。しかし、依頼人は自分の立場というものをまず客観的に見つめる必要がある。
中には精神バランスを崩して休職中の人とやりとりをすることもあったりして、僕は「オレは医者じゃねえからな」とはじめに断ってから、結論的には「大丈夫だから心配すんな」といった愚にもつかない回答を差し出す。でも、本当にこれしかないんだから。
実際はちがうかもしれないけど、「(会社を辞めても)大丈夫」「(生きていれば)なんとかなる」と念じるしかないような状況というのは、僕自身も経験してきたことだから。

人の話を聞く過程においては、デイル・カーネギー『人を動かす』という名著に書いてあったことをそのまま実践するだけだ。
「聞き手にまわる」とか「誤りを指摘しない」とか「人の身になる」とか、当たり前なんだけど簡単にはなかなかできないことを、できる限りやるだけだ。
この本には重要なことが書いてあって「人間の持つ最も根強い衝動は、”重要人物たらんとする欲求“だ」とある。あなたは人として重要である、と思われたいし、自分としても自尊心を持ちたいということ。これが叶えられないと人は動かないし、動きたがらない。

であるならば、この重要感が保てないと考えるなら、その会社は辞めた方がいいのではないか、というのがひとつの基準になる。そして、人の自尊心など屁ともとらえないような組織が日本に増えていることもおそらく事実だろう。

一寸の虫にも五分の魂というように、「“Shit job”(クソみてえな仕事)にもなにかしらの意味がある」と思いたいものだが、どうなんだろう。つまらない繰り返しの仕事でも意味があると思えるのなら、やるしかない。

僕は店をやりながら、時折ふたつの言葉を思い出す。ひとつは古い記憶だ。
僕が十八才で西新宿の居酒屋でバイトをしていた時にヒマな晩があり、江戸っ子の親方がこう言った。
「ショーちゃん、商いってのはよ、『あきない』ことだからよ、飽きちゃあいけねえんだよ」

僕はお客さんが来ない日にこれを思い出す。           

もうひとつは最近読んだ本の中で、糸井重里さんが言っていたことだ。
「ぼくらは農業のように、毎日続けていくことを大事にしています」(聞き手・川島蓉子、語り手・糸井重里『すいません、ほぼ日の経営。』日経BP社)

僕は、毎朝フロアに掃除機をかけることが面倒くさく感じる時にこれを思い出すことにしている。

 

さて、二〇一八年は、僕にとっては(毎年のように)楽しい一年でした。新年も皆さんにとって素晴らしい一年となりますように……。