月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「太くて黒い棍棒を」

僕の仕事仲間に山本太郎さんという人がいた。仮名か実名かわからない名前なのでこのまま書こう。もちろんあの政治家とは無関係だ。

太郎さんはちょっと変わった人で、よくしゃべった。あんまり人の話を聞かずにしゃべるくせに結論がなかったりするので、会議の中では僕はたまに苦笑した。
彼の方が年上だけど一度など、
「黙れ! オレがしゃべっとんねん」
と黙らせたことすらある。放っておくとまたしゃべり出す。

仕事でなければとても愉快な人で、誰とでも友達になる特技があり、実際に友達も多かったと思う。

もう十五年近く前のことだが、僕と太郎さんはもう一人の仲間とスウェーデンフィンランドに出張した。現地のタクシーの中では、最も英語が話せない太郎さんが一番よくしゃべった。
「*** Hotelね。Little hurryね」
「太郎さん、英語のあとの、その『ね』はなんなんですか」

出張の終盤、だいたい仕事は済んだ頃に、僕たち三人は雪と氷の町にぽつんとあったレストランに入った。
太郎さんはまずビールを頼んだ。料理を注文して待つ間、僕たちはひとまず互いを労って乾杯した。
「ん?」
ビールを一口飲むと、太郎さんは胡乱げにボトルを手に取って、裏のラベルを見た。
「どうしたんですか?」
「このビールな、賞味期限切れとるわ」
飲んだ瞬間に違和感があったのだろう。賞味期限の欄には、わずかに過ぎた年月日の記載があった。
僕がウェイターを呼んだ。なのに太郎さんは、ボトルを突きだすと、いきなり言い放った。
「チェンジ! チェンジ!」
僕は慌てて太郎さんを制して、ウェイターになるべく落ち着いた口調で告げた。
「このビールの賞味期限が切れていたようなんです。フレッシュなものと交換をお願いできますか?」

ウェイターが奥に引っ込んでから、僕は太郎さんに言った。
「あのね、太郎さん、突然『チェンジ! チェンジ!』なんて言ったら、日本語では『替えろ! 替えろ!』って言っているようなものですよ」
「そ、そうか……」
「ホテトル嬢ちゃうねんから」
「せやな」
「これから僕らの料理が出てくるってのに、その食いもんに何されるかわかりまへんで」
「あ、ヤバいかな?」
太郎さんは言うが早いか、席を離れ、勝手に厨房に消えていった。
一分半後に出てくると、笑顔で「もう大丈夫や」と言った。
「全員に挨拶して、握手してきた」
なんやそれ。厨房の皆さんは、キョトンとして、もう一回手を洗い直すハメになったかもしれないが、その晩は和やかにメシを食べて終わった。

まぁ、とにかく、クレームを入れなくてはならない時や、誰かの何かを正さなくてはいけない時、イラッと来た時こそ、賢明な対応をしなくてはいけない。特に頭に血が上った状態で、正確に判断しなくてはいけないというのは難しいことだ。

前々号で僕は最近「怒らなくなった」と書いたが、僕の家族や古い友人たちは笑うだろう。瞬間湯沸器とか狂犬と比喩されるにぴったりの短気な人間が、僕だったからだ。

もちろん今でも怒ることはあるのだけど、それは
①怒ることが問題解決につながる時
②相手に悪意がある時
の二つの状況においてのみである。

だから、会社員時代も後輩に怒ったことはない(と思う)。
最善を尽くしたつもりだけどできなかったことや、うっかりやらかしてしまったこと、ど忘れしてしまったことを怒ったところでどうしようもない。それらは僕にもしょっちゅうある。
そんなことより、起きてしまった問題をどうしたらいいのか考えた方がいい。

携帯電話を片手に、おそらく後輩だか部下だかに
「お前、今すぐ持って来いや、コラー! ここに! 今すぐや!」
と怒鳴り散らしているサラリーマンを道端で見たことあるが、「ここ」てどこやねん。電話やぞ。

相手に悪意がある、もしくはそう感じた時には徹底抗戦する。そういう姿勢を見せなくてはいけない。
クソリプにはさらなるクソを返す。

棍棒を携え、穏やかに話す」
これはセオドア・ルーズベルト大統領が、自身の外交方針を表わしたスローガンだ。「棍棒外交」という言葉で知られるが、棍棒だけでは一面しか捉えていない。
「にこやかに罵詈雑言を吐く」のは竹中直人だ。そうじゃない。

ムッカーッときて怒りが溢れ出そうな時に、①問題解決になるか、②相手に悪意はあるか、の二つは考慮していいはずだ。

だから、駅とか店で大きな声で怒っているおっさんはアホなのである。
何十年も生きてきて、そういうふうに状況と感情をブレイクダウンして考えたこともないのである。困ったものだ。
大雨で電車が止まったとして、駅員さんに怒鳴ると電車が動き出すのだろうか?
駅員さんはおっさんに意地悪をしようと、電車を止めたのであろうか?

上記二つのクライテリアを「そんなもん冷静に考えてられるか」という向きには、最後にもうひとつだけ提案があるがどうだろう。

「カッコいいかどうか」
その時にどういう対応を見せるのがカッコいいのか、で決めるしかあるまい。
僕は個人的には、心の中に「カウボーイ」を住まわせていて、その男はめちゃくちゃカッコいいんだ。一生追いつけないくらいカッコいいんだけど、少しずつ彼に近づきたいと思わせてくれる。
どうすればいいか教えてくれるし、ちょっと待てと抑えてくれるし、この方がよくない? と提案してくれる。
そして、人として言うべきを言わなくてはならない時、ちょっとした勇気が必要な時、カウボーイは僕に語りかける。
「お前、いまそれを、そいつに言わなかったら、あとで家に帰ってから後悔しないか?」

僕はその声に従う。
それは人によって、カウボーイでなくても、サムライでも、ナイトでも、キングでも、矢沢でもなんでもいい。あなたが信じられる何かを、心に持ったらいい。

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さて、ここまで言っても、威圧的に人を恫喝したり、暴力的に人を苦しませるのが「カッコいい」と考えている人間がいる。確かにいる。

僕のカウボーイは、僕以外の人にはなにもしてあげられないので、申し訳ない。せめてそういうやつらが特別に太くて黒くてデカい棍棒でぶん殴られますように、と祈っております。

マエダという名前とインドネシア

もう五年もたってしまった。五才若かった僕は、インドネシアで働いていた。
勤めていた広告会社で、アジア内のあちこちの拠点にコピーライターやアートディレクターの中堅社員を送り込み、三ヶ月間、現地社員たちと席を並べて働くという研修プロジェクトがあったのだ。
大阪で働いていた僕はある日、上司に小部屋に呼ばれた。
「……というプロジェクトを本社が始めるそうで、お前が関西第一号として選ばれたから」
呼ばれた時点では、僕は人事異動かなにかだと予想していたので戸惑った。
「え、どこの国に行くのですか?」
「わからん」
「いつからですか?」
「わからん」
こんないい加減な感じだったのだが、やがて僕はインドネシアに送られた。

その頃に書いたコラムは12年12月号から13年4月号までの四回に残されている。

僕には、今でもインドネシアに友人たちがいる。最近は、現地の経済伸長が著しく、インドネシアから彼らが日本に旅行にやってくる。その度に僕は京都や大阪を案内したり、観光客が来ないようなバーに連れて行くのである。

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僕はインドネシアを愛してやまない。
日本人の多くが知らないのが大変残念なことなのだが、僕の苗字である「前田」というのは、かの国ではとても尊敬されている。

旧日本海軍に、前田精(ただし)少将という人物がいて、大東亜戦争時に在バタビアジャカルタ日本海軍武官府の代表をされていた。

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インドネシアというのは、およそ三五〇年間に渡り、オランダ(およびイギリス)の植民地だった。赤道に近い熱帯の気候は、コーヒー、タバコ、茶、サトウキビなど国際市場で需要の高い作物の栽培に適し、地下資源も豊富だった。しかし、それらすべては植民地政府に安く買い取られ、ヨーロッパで高く売られた。

一九四二年に、日本軍が石油を求めてインドネシアに侵攻し、オランダを追い出した(オランダ本国はすでにドイツに降伏して、イギリスに亡命政府を作っていたが、オランダ領東インドと呼ばれたインドネシアには植民地政府が残っていた)。

そして、戦争は日本の敗北で終わる。
オランダ植民地軍が戻ってくる。
インドネシア人がとうとう独立を求めて立ち上がった。

ポツダム宣言を受け入れた日本は、何もしてはいけなかったし、武力紛争が起これば鎮圧する義務を負っていた。しかし、前田少将は、かねてより親交があったスカルノ氏、ハッタ氏らが独立宣言を起草する際、安全な自分の公邸に呼び入れ、部屋を使ってもらった。
スカルノ氏とは、デヴィさんが第三夫人だった人、と言った方が日本ではわかりやすいかもしれない。インドネシアの初代大統領になる人物である。ハッタ氏はその後、二代大統領に就く。

  宣言
  我らインドネシア民族はここにインドネシアの独立を宣言する。
  権力委譲その他に関する事柄は、完全且つ出来るだけ迅速に行われる。
  ジャカルタ、05年8月17日
  インドネシア民族の名において
  スカルノ / ハッタ

手書きの原稿には日付のところに数字が「17 8 05」と並ぶ。17日8月05年の意味だが、05年というのは、日本紀元(皇紀)で、1945年は2605年だったからだ。イスラム教徒であった起草者たちは、キリスト教に基づいた西暦を拒否したかったのだろう。

インドネシア独立戦争は一九四五年から四九まで続いて、日本軍の中から祖国を捨てて、軍を脱走してインドネシアに残り、現地人とともに戦った者たちが一千から二千人いたと推定される。そのうちのかなりが命を落としたと言われている。

 

現在では、前田精少将の邸宅は、独立宣言文起草記念館として公開されている。
インドネシア独立戦争で亡くなった八〇万人の一部は、ジャカルタ郊外のカリバタ英雄墓地に墓標がある。日本人の名前が並んだ一角もある。
僕は五年前に、その両方を訪ねた。

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前田提督(海軍の将官を提督という)は、インドネシア語では「ラクサマナ・マエダ」といい、教科書にも出てくるそうなので、ちゃんとした教育を受けたインドネシア人にはよく知られている。

僕がインドネシアの拠点をはじめて訪れた頃、僕なりに緊張していたので、白いシャツを着て、マジメな顔をして会社に通った。インドネシア人の同僚からしたら、「日本からなんだかパリッとした人がやって来た。『マエダ』さんというらしい……」と、敬意を持った目で見られていたようだ。
ある時、同僚に訊かれた。
「あのー、マエダさんは、あのラクサマナ・マエダと関係がある人でしょうか?」
僕は眉ひとつ動かさず、相手の目を見据えて答えた。

「もちろんだ」

数秒おいて、ニヤッと笑うと、向こうもそれが冗談だと気づく。
「わははは! ウソつけ!」
「わははは! オレを敬え!」

こんなふうにして、僕は彼らと友達になった。前田提督に感謝である。
しかし、僕の次に派遣された後輩社員も、名前が前田くんだったから、マエダがありふれた名前であることがバレてしまった……。

若いデザイナーの社員とキツイ仕事を担当して毎晩夜中までクレイジーな働き方をした。イユスくんという。彼とのことは13年1月号に書いてある。

五年たって、彼は二回会社を移っているが、その時の同僚であった女性社員と結婚して、ハネムーンで昨日、日本にやって来た。僕は昨夜、大阪の道頓堀近くに会いにいった。

観光客が来ないバーに彼と花嫁を連れて行って、思い出話をした。
「マエダさん、僕はあの時の企画、クライアントに採用されなかったけど、今でも一番よかったと思っています」
「そうだよなー。あれ、おもしろかったよな」
「日本の広告会社は、クライアントの求めるものを提案しようとするけど、今いる(欧米系の)会社は、本当にいい案を出そうとするから、こっちの方がいいです」
僕はあの時、傭兵みたいな立場だったので、力を示さなくてはならなかったし、広告ってそもそもおもしろいはずじゃん! ということを若い彼らに見せたかった。だから、やや無責任におもしろい案を出したのだった。それはそれですごいプレッシャーだった。

イユスくんは、日本が大好きで、奥さんの方は本当は韓流スターが好きなのだが、「まずは日本!」と主張して連れてきたそうだ。
前述のラクサマナ・マエダの冗談を彼にも話して笑った。
僕はカウボーイの話をした。
彼はジャパンが受注を逃し、チャイナに奪取されたジャカルタ高速鉄道の話をした。
その他、なにかいろいろ話した。
「君たちは、これからセックスしろよな」
と言って、新婚夫婦と別れた。

五年前に、文字通り、笑ったり泣いたりしながら働いてよかったと思えた、いい夜だった。

ジャカルタの、体にまとわりつく熱気と雨のにおいが、僕は恋しい。

「電通辞めて三年たった予後観察(個人的メモ)」

僕は二〇一五年六月にそれまで十四年勤めた電通を辞めたので、もうすぐ三年になる。
この『月刊ショータ』では、「幸せに生きるための10のこと」みたいな、読んですぐ効いたような気がするコラムは書かないことにしているのだけど、今回は「本当のことを書く」という原則は守りつつ、「会社を辞めてわかったこと」を書こうと思う。

※とっても個人的な話です。すぐに効くどころか、およそ人の役に立つとは思えませんので、ご了承ください。

いいことしか書きません。悪いことの方は、だいたい誰でも想像される通りです。僕は退職してすぐにカナダに行ってカウボーイをしていたので(拙著『カウボーイ・サマー』ご参照)、失業保険を受け取っていません。冬のある日に、「トラックドライバー募集」の案内を真剣に読み込んだこともあります。

しかしながら前提として、僕は会社がイヤでイヤで辞めたわけではありません。

 

■怒らなくなった

この三年間で怒ったことなど、猫の寅次郎を何度かブチのめしたくらいで、こちらもそれ以上に傷だらけになった。最近では寅と話せるようになったので、流血事案も少ない。

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一部読者には有名な寅の痴態w

人間に対してはおよそ腹を立てなくなった。
うちの主人(妻)によると、会社員時代の一時期は、帰宅してもイライラしていたり、常に腹を立てているようなことがあったようだ。広告の仕事というのは、本当にしょーもない人にしょーもないことを言われ続ける仕事なので、よほど心の広い、寛容な、そして、打たれ強い人にしか勤まらない。もしくは、意地の悪い書き方をすれば、仕事は仕事、と割り切れて、心底では大した興味がない人。

なんで怒らなくなったのかと、自分なりに考えてみると、圧倒的になにかをガマンしなくてはならない状況が減ったのではないかと思う。日本の人は明らかにガマンをしすぎ。その象徴が男性サラリーマンのスーツで、どうしてなにか公式な日でもなく、猛暑のアジアの国でスーツを着続けなくてはいけないのか、誰も疑わない。疑っても、お上が「クールビズ」と名前を付けて免罪符を発行するまで動かない。
それでいてカッコつける目的の服であるスーツが日常化することで、ぜんぜんカッコよくない着こなしを独特の発展のさせ方をしてしまう。

あ、他人事なのに腹立ってきた。

僕は会いたくない人に会いに行くことはないし、飲みたくない酒を飲むこともない。
ストレスというのは、仕事そのものから発生するのではなく、ほとんどの場合、人間関係が原因なのだそうだ。仕事だからガマンして、嫌な人間と顔を突き合わせなくてはならないから毎日がイヤになってしまうのだ。
個人的には、電通の人も、クライアントの人も、そんなに嫌な人間ばかりだったわけではなくて、僕は実に恵まれていたと思っている。それでも、ガマンは充分してきたつもりなので、しんどい業界であったことは確かだ。

 

■友人が増えた

今さらやっとわかってきたのだが、電通の頃の僕は、周りの人たちからは「電通の前田将多さん」としか思われてなかったのだろうなーと思う。いくらこちらがそんなつもりはなくて、誰とでも人として付き合っているつもりでも、あちらは「電通の」という枕詞なしには自分を見てくれはしないようだ。
もちろん当時はそれでいいことの方が多かったように思うのだが、友人は辞めてからの方が増えた。友人は多けりゃいいってものではないし、積極的に増やすつもりもないけれど、おもしろい人が僕をおもしろそうと思ってくれて、どこかで出会う。

そして、前述の通り、僕は嫌な人間とは無理に付き合わないので、いい友人ばかり何人もできた。単純に、彼らと会う時間ができたというのもある。
電通の人と飲みに行こうと思ったら、大統領に面会を願うような「今月はこの日しかない」みたいなことがザラにある。

 

■よく眠れるようになった

僕は不眠の傾向があり、ベッドに入ってから30分以内に眠れるようなことはまずなかった。なかなか眠れなくて、睡眠について自分なりに編み出した方式があって、「眠くならない時は、眠れなくても翌日に大した影響はない」「5時間眠るくらいなら、4時間の方がスッキリ起きられる」「夜眠れなくなるから、昼寝はしてはいけない」とか、いろいろ自分に言い聞かせるようにしていたのだが、今はすぐに眠れる。たとえ昼寝をいつ何時間しても、夜すぐに眠れる。

……こんな個人的な事情を書いても、人の役には立たないけど、まぁこれくらい不健康から解放された幸せな人間だと思ってほしい。いったいなんちゅう生活をしていたのかと、我ながら憐れに思うこともある。

あの頃を思い出すと、ベトナム帰還兵の気持ちが少しわかるような気がすることがある。もちろん僕は五体満足なのだが、精神のどこかを欠損したような感覚だ。

 

■本番を生きている

広告の仕事というのは、ヨソ様の会社や製品をいかにプロモートするかということに思索を巡らす。僕にはこれがどうにも練習試合のように感じられることがあった。
どんなにいい施策を実施することができても、もしくは失策をやらかしたとしても、最も影響を被るのはそのヨソ様であって、僕たちではない。もちろん会社が広告の扱いを失うのは痛手だが、キレイごとを言わせてもらうなら、クライアントに被害を及ぼしてしまうよりはマシなことだ。

だから、究極的には他人のために時間を使い、体力を費やし、知力を振り絞っている。
「これ一生やってていいの?」
と、時折思うのであった。
現在も広告業界にて懸命に働いている友人たちには失礼な話で申し訳ないが、これは個人の仕事観とか人生観にかかわることなので容赦願いたい。

練習試合でたくさんの経験を積んで、やがては自分の本番をしたいと、僕は思った。

電通でどんな失敗をしても、規則や法律に触れない限りクビになることはない。
ひどいトラブルを起こしてしまったとしても、給料は毎月保証されている。
会社がつぶれることは、当面の間はない。

 ただ、おもしろくない。

脈拍数が低い人間は、本能的にそれを上昇させようとするためスリルを好むそうだ。僕は確かに脈拍が少ないのだが、ギャンブル自体にはそれほど興味はない。だけど、電通辞めてカウボーイするとか、ちょっとおかしいところがあるのかもしれない。
自分の本番と言っても、何千億円も稼ごうとか、世界に支社をつくろうとかは視野にない。僕が立ち上げたスナワチ社は、ただスモールビジネスがスモールサイズのまま、目の届く範囲によろこびを提供していけるのかどうか、試したいだけだ。夢など小さい。だけど深いつもりだ。

いいことしか書きません、とはじめに書いたので、悪い側面は挙げないけど、それは数え出したらキリがない。こんな不安定な暮らしはないと思う。
だけど、怒らなくなって、いい友人が増えて、よく眠れて、ドキドキできたら、これ以上なにを求めよう。まずまず幸せなのではないかと、いつもいつもではないけど、思うのである。

こんな話でよければ、もっと聞きたい方がいらしたらスナワチへお越しください。
コーヒー淹れますよ。
スナワチ大阪ストア
大阪市西区阿波座1丁目2-2

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「#metoo 時代のHow to SEX」

僕の友人の稲元くん(仮名)は、女の子と飲みに行くと、「サラトガクーラー」を注文するという。彼は現在二十代で、カノジョはいない。
「なんでサラトガクーラーなの?」
僕は尋ねた。
サラトガクーラーというのは、ジンジャーエールとライムジュースのノンアルコール・カクテルなんです。だから、女の子に僕が酒飲めないってバレないんです」

そう、稲元くんは下戸なのだ。彼は続ける。
「ですので、わかってるバーテンダーなら『ハイ』ってそのまま作って出してくれるのですが、そうでない人は『こちらノンアルコールのサラトガクーラーです』って出してきやがるのでムカつくんです」
「『え? 飲めないの?』ってバレてまうから?」
「そうなんです」
「別にええやないか、飲めなくたって」
「ちがうんですよ……。女の子って気を使ってるつもりなのかなんなのか、こっちが飲まないと向こうも『じゃあワタシもいいや』って飲まなかったりするんですよ」

その後の説明を端折って、稲元くんの懸念をまとめると、よーするに、女の子が飲まないとエッチなことをする雰囲気にまでたどり着けるチャンスが減るのだという。彼はヤリたいのだ。いや、彼だけではない。男というのはヤリたい生き物なのだ。

気持ちが悪いと言われようがなんだろうが、僕はそれを否定するつもりはない。若い男がもっと恋愛をしてセックスをしてくれないと、世の中が暗いままだ。人類が繁栄しない。

しかし、稲元くんに根本的なことをお教えしよう。
はじめからウソなんかついてはいけない。

これには僕なりの根拠がある。これは以前(2016年5月号)にも紹介したが、人と人が出会って恋愛関係に発展するには段階というものがあって、「恋愛の発展へのホイール理論」という。社会学者のアイラ・ライスが提唱したセオリーだ。
非常に重要なので、この話は馬鹿のひとつ覚えのように何度でも言うが、これには四つの段階がある。

①Rapport [一致:「いいな」「気が合うな」と思うこと]
②Self-revelation [自己開示:自分について曝すこと]
③Mutual dependency [相互依存:お互いを頼ること]
④Personality need fulfillment [人としてのニーズを満たしてくれること]

②に着目してほしい。自分のことを知ってもらわないと、関係は発展しないのである。
もちろんこれは双方向のことで、出会った二人がお互いを開示し合わなくてはならない。
だから、「僕は酒飲めないんだよね」なんて話は真っ先にしておいた方がいい。あとになってウソがバレると恥ずかしい。たとえ一晩限りの関係を求めているとしても、酔わせてナンとかしてやろうなんていうのは、昨今では「#metoo」の一言で社会的に抹殺されてしまう。


善良(でフツーにスケベ)な男性にとってですら、セックスのしにくい世の中になったものだ。
#metooによって性暴力が抑制されるのは歓迎だが、#metooはほとんど女性から語られた性に終始し、男性は黙っている。偽善者は別として、世の男性は腫れ物に触るように、この話題を避ける。
そりゃそうだろう。本音を言えばヒステリックに指弾され、クソリプが飛んできて、全男性は悪とされ、楽しくもないフェミニズミックな議論に巻き込まれそうだからだ。僕は男女同権を基本理念として、以下は男性の視点から書くことにする。

「同意」についてかなり厳しく定義が進み、このままいくと各人が不動産契約かケータイショップのように、ちっさいちっさい文字で書かれた、読む気もしない長ったらしい文言を読まされ、「同意」にサインでもしないとセックスできなくなるような感慨がある。
それが"Play it safe"だというならそうなのだろうが、同意書を読み上げているうちに、チ〇チンは萎む。そんなことをモノともせずに元気いっぱいに勃起できるほど、多くの男性は心もチ〇チンも強靭ではないのである。

芸能人の不倫が「文春砲」に代表されるイエロージャーナリズムによって見世物にされ、官僚のセクハラ発言が国会を空転させるほどに、性に関して繊細で厳しい世の中だ。大人たちはそんなにナイーブなのか。Naiveというのは、日本人はsensitiveと誤用しているが、より「無知」に近い意味だ。

中年になったアイドルが女子高生を家に呼んで「何もしないなら帰れ」と恫喝するのは同意以前に許されることではないが、大人の男女だったとしたら、どのようにセックスへ向けて合意形成をしていくのか。

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僕が会社で新入社員だった頃、西先輩(仮名)がこう言った。
「社内はやめとけ」
東京ラブストーリー』(一九九一年)世代の僕は、サラリーマンになったからには、テレビドラマのような社内恋愛もしてみたい気持ちがないわけでもなかったが、「社内はトラブルの元だ」と西先輩は断固として言うのだ。
時は二十一世紀になったばかりで、セクハラという概念もまだ曖昧なものだったし、性に関してゆるい社会であったと思うのだが(広告業界なんて、墓場まで持っていかなしゃーない話が山ほどある)、今思えば、社内というのは力関係だらけだ。
同期以外の人間関係は、力関係しかないと言っても過言ではない。そんな中で恋愛をしようものなら、トラブルが尽きない。

上下関係があるのなら、どんな社内恋愛だってセクハラではないか。『はじまりはいつも雨』(ASKA)ではなくて、はじまりはいつもセクハラということになってしまう。

そして、男にとって、「この人に襲われそうになったんです!」と言われてしまえば言い逃れは難しい。まるで痴漢冤罪のように、男性は圧倒的に不利である。
だから、先輩は満員電車の中で両手を上げて耐える乗客のように、社内の女性とは関係を持たないことを徹底した。結果、十数年たった今でも独身を貫いているのだが、これはまぁ自己責任というか、個人の選択の範疇だ。

 
さて、#metoo時代のHow to SEXである。

「おっぱい触っていい?」と同意を求めることはセクハラでアウトなのだそうだが、これは高級官僚のおっさんと取材者である若い女性であったからダメなのであって、稲元くんは若い男性だ。世の中はフェアにはできていない。

稲元くん、僕は特にその方面のエキスパートでもないのだが、正攻法で考えるなら、こうするしかないのではないかという、ひとつの回答にたどり着く。

「セックスしませんか?」

この一言を、どのタイミングで、どういう口調で、どういう表情で、どこまでの関係を築いたあとで、言えるか言えないか。煎じ詰めればそれしかないのではないか。

「ホテル行こう」はもう通用しないことになるのだ。だって「ホテルに行くとは言いましたが、セックスすることに合意はしていません」ということになるからだ。
「おっぱい触っていい?」は、よもや同意を得られたとしても、その先も、「キスしていいですか?」、「パンツ脱がしていいですか?」、「○○を××していいですか?」と延々、許諾を確認しなくてはいけないことになる。その間に再び、チ〇チンは萎む。

最後は法廷に立つ覚悟で、稲元くんはセックスに臨まなくてはならないのである。

 男がバカで、どうしようもなくスケベであることは認める。僕はカナダの牧場でカウボーイしていた時に、牛を眺めてつくづく思った。オスというのは去勢されてさえ、メスがそばにいれば後ろから乗りたがるのだ。バカじゃないかと思ったが、まさにあれが我々の姿だ。

いい女がいればなんとかしてヤリたいと思うし、おっぱいが近くにあれば万にひとつの可能性にかけて「触っていい?」と言うし、昔は公園にエロ本が落ちていれば、雨でグチョグチョであっても木の棒でページをめくったものだ。
オハイオ州立大学の調査によると、若いアメリカ人男性が一日にセックスについて考える回数は平均十九回であるという。

それでもなお、男はつらいよ、と思う。別に、わかってくれとは言わないが、先の「セックスしませんか?」だって、ほとんどの機会では、男が提案する立場に置かれるのだ。提案は多くの場合、却下される。

人間というのは、就職面接であれ、恋愛であれ、拒絶されるのはつらいのである。そのリスクを負って、ベッドに誘い、なにかをトチれば社会的に殺されかねない。
もちろん女にもリスクはある。レイプされるリスク、妊娠のリスク、誰とでも寝る女とレッテルを貼られるリスク(この社会的圧力は結構大きい)、その時は仲良くハメ撮ったものをあとになって晒されるリスクなどなど。たくさんありましたね、すみませんでした。

ただし、前出のオハイオ大の調査を再度引っぱり出してくると、一日にセックスのことを考える回数は、女性の場合で平均十回なのだそうだ。男性の約半分とはいえ、結構考えているらしい。

ということは、「セックスしませんか?」のキラーフレーズだって、もっと女性からリスクをとって言える世の中にならないと、社会の大きな部分はなにも改善しない。本当の意味での男女平等は実現しえないだろう。


雰囲気のいいバーにて、彼女はお酒の何杯かも飲んで、稲元くんはサラトガクーラーですら充分いい気分の夜だ。二人は、カウンターの下で手をつないでみる。が、彼女はそれをすぐに放すと、肘をついて両手を組む。
「今、ワタシがなに考えてるかわかる?」
彼女が笑いかける。彼は、少し胸が弾むのを自覚する。
「え、なんだろ。僕と同じことかな」
「ふふふ、たぶん一緒のことかな♡」
「じゃあ、同時に言おうか」
「いいわよ」
「せーの……」

 

「セックスしませんか!」「最後にアイス食べよ」
どうしてくれるのだ。この恥ずかしさ……。

常に「断られること」「恥をかくこと」に怯える男性は、これ以上リスクが増大するなら、報酬と懲罰を天秤にかけて、もう恋なんてしない、なんて、言わないよ絶対。結局すんねやないか、槇原さん。

いろいろ能書きを垂れましたが、もうはっきりと言うしかないと思うんだ。

ちょっとお茶するように、電車でUSJに行くように、愛車を飛ばして海を見に行くように、波とひとつになるように、紺碧の空に湧き上がる入道雲のように、稲穂が風に撫でられてダンスするように、砂漠の月影に浮かぶ一対のナツメヤシのように、春の訪れに蠢動をはじめる虫たちのように、そして、檻に入れられた牛のように。

「セックスしませんか?」

「銃でスポーツする人たち」

九〇年代の後半。僕がアメリカのケンタッキー州の大学にいる時、パブリック・スピーキングのクラスが必修だった。つまりはプレゼンテーションやスピーチなど、大勢の人の前で話をする技術を学ぶ教室だ。
その中で、「自分が好きなことについてスピーチをしろ」という課題があった。僕がその時、下手くそな英語で何について話したのか覚えていないのだが、おそらくカントリーミュージックについてでも話したのだと思う。

ブライアンという男がいて、迷彩柄のツナギとオレンジ色のヴェストを着て教室に現れ、彼が愛してやまないハンティングについて話した。アメリカの田舎ではハンティングというのは人気スポーツである。主に鹿や七面鳥を撃つ。

「アウトドアショップ」に行くと、たいていキャンピングやバーベキュー用品に加えて、釣り、カヌー、そしてハンティング・グッズが大量に置いてある。もちろん、ライフルやボウガンなど、武器として殺傷能力を有するものも様々なバリエーションが販売されている。

ブライアンのスピーチのあと、質疑応答の時間に、僕は手を挙げた。
「撃った動物はどうするんだい?」
「食べる。ソーセージにしたり、グリルで焼いたり」

クラスが終わると、ブライアンが僕に近付いてきた。
「ショータ、お前はハンティングしたことあるか?」
僕が質問したことにより、この日本人はハンティングについて何も知らず、もしかしたら殺生することに批判的な見方をしている、と受け取ったのかもしれない。
僕が「ない」と答えると、彼は「今度の土曜日、ディア・ハンティングに行くけど、一緒に来てみないか?」と誘ってきた。
僕は即座に申し出を受け入れた。

朝3時。まだ外は真っ暗な中、彼は友人と二人で僕を迎えにきた。
「陽が出てから森に入っているようではもう遅いんだ」
彼は話しはじめる前に”I tell you what(いいか?)”と言うのが口癖のようだった。
森の入り口でピックアップトラックを止めると、ブライアンは僕のための用意してくれたオレンジ色のツナギを出した。僕は着ていたものの上からそれを身に着けた。同じ色のニットキャップもかぶった。

森に踏み込む前に、彼は注意事項を告げた。
「いいか、これからハンティング用の見張り小屋へ向かう。声は立てるな。咳もしたらダメだ。もしもどうしても我慢できない時は、上着の中に静かにやれ」
彼は服の首の部分を引っ張って、そこにアゴを突っ込むようにして見せた。

暗闇の中をどのように進んだのかわからないが、しばらく歩いてから、僕たち三人は見張り小屋に入った。木造の物置のような小屋だが、草原に向いた方の壁には一文字に覗き窓がある。そこからライフルを出して撃つので、当然ガラスはない。

夜空が白んできた。どれくらいの間、そこに潜んでいたのかわからないが、会話をしてはいけないのだから、ただただ寒かったことだけよく覚えている。ブライアンは双眼鏡を覗いたまま微動だにせず、広い草原に獲物が顔を出してくるのを待っている。
やがて、彼がささやいた。
「Buck(牡鹿)だ」
僕が肉眼で見てもよくわからなかったので、距離は遠かった。
ブライアンはライフルを構えると、一発ぶっ放した。

外したようだ。
やはり遠すぎたのか、牡鹿は逃げていってしまったという。

小屋は諦めて、場所を移すことにした。森のさらに奥へ入って行って、木々に囲まれた薄暗い場所でブライアンは立ち止まった。
彼は、僕が見たこともない道具を出した。持ち運び用の座席の背の側にループ状のベルトが付いているもので、いま調べたら「ツリー・スタンド」というそうだ。
〈参考画像〉
木に登って、動物に気付かれないくらい高い位置の幹にベルトで固定する。だいたい地上十二メートルくらいはあったのではないだろうか。
「いいか、ショータは、いま俺が設置したこれに座っておけ。俺はあっちのあたりに陣取るから」
彼と友人は森に消えていった。別々の場所にツリー・スタンドを取り付けて、それぞれ上から獲物を狙うようだ。

僕はまっすぐ伸びた木の幹をよじ登り、そこに座った。といっても、僕はライセンスがないためライフルを撃つつもりはないので、そこに座っているだけだ。
靄がかかった森の寒さの中、じっと座って、耳だけを澄ませていることになる。途中でおしっこがしたくなったが、降りてまた登るのが面倒くさいし、ガサゴソ音を立てて、ブライアンたちに撃たれでもしたらかなわないので我慢した。こちらから、彼らの居場所はわからないのだ。

銃声が二回聞こえた。
僕が息を殺して待っていると、しばらくして枯葉を踏む足音と、ブライアンたちの声が届いてきた。
「仕留めた。もう一頭いたけど逃げていった」

鹿は胸を撃たれて即死だったようだ。ピクリともせずに、そこに倒れていた。ブライアンは満足げにその傷口の位置を確認した。
彼は頼りないくらい小さなポケットナイフで、鹿の腹を裂くと、内臓を手づかみで枯葉の上に捨てた。それは朝の冷たい空気の中、湯気を立てた。途中で、腸を割いてしまったらしく、彼は「クソッ!」と顔をそむけた。血や臓物よりも強い、糞のにおいがあたりに立ちこめた。

「腐りやすいから内臓は捨てておく。こいつは持って帰ってトラックに載せる」
狩った鹿は地元の管理事務所に報告をして、頭数を把握してもらうという。
ズルズルと死骸を引きずって森を出ると、ケンタッキーの小さな町は、いつもと変わらない土曜日が動き出したところだった。

 

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アメリカで銃乱射事件が起きると、決まって銃規制の話題が盛り上がる。
一九九九年に起きた有名な銃乱射事件であるコロラド州コロンバイン高校(15人)のあとにも、重大なものだけで以下のような銃乱射事件がある(カッコ内は犠牲者数。射殺された犯人は含まず)。
二〇〇七年:ヴァージニア州ヴァージニア工科大学(32人)
二〇〇九年:テキサス州フォートフッドの陸軍基地(13人)
二〇〇九年:ニューヨーク州ビンガムトンの移民センター(13人)
二〇一二年:コロラド州オーロラの映画館(12人)
二〇一二年:コネチカット州サンディフック小学校(26人)
二〇一三年:ワシントンD.C.海軍工廠(12人)
二〇一五年:カリフォルニア州サンバーナーディーノ(14人)
二〇一六年:フロリダ州オランドのナイトクラブ(49人)
二〇一七年:テキサス州サザーランド・スプリングスの教会(26人)
二〇一七年:ネヴァダラスヴェガスのコンサート会場(58人)
二〇一八年:フロリダ州マージョリー・ストーンマン・ダグラス高校(17人)

犠牲者がいないもの、より小規模な事件はもっとあるのだが、列挙すればするだけ無機質な、単なる場所と数字の羅列になってしまう印象がある。

アメリカ開拓の歴史の一翼を担うといっても過言ではない、米国最古の銃火器製造メイカーであるレミントン・アームズ社が破綻した。アメリカの分析によれば、トランプ大統領が誕生した二〇一六年以降、銃火器の販売数は落ち込み、各社苦境に耐えているという。
なぜかというと、愛好家たちが「トランプなら銃規制に消極的だから、銃を今買っておく必要もないだろう」と買い控えたからだという。皮肉なものだ。

僕はもはや歴史や憲法と直結した銃火器の規制というものを絶望視している。それでも、せめてAR-15に代表される「アサルト・ライフル」だけは民間への販売を禁止するべきではないかと考えている。すでに一千万丁から千二百万丁が出回っていると言われているので、手遅れであることには変わりないのだが。

アサルト・ライフルというのは、元々はコルト社が開発したAR-15がオリジナルだ。軽量で反動が小さく、全自動ではないが、トリガーを素早く引くことで何十発も連射が可能なライフルである。その上、銃弾の速度が速く、殺傷力が非常に高いという。
一九七七年にコルト社の特許が切れると、各社が類似品を製造販売し出した。
「銃乱射事件で使われた『AR-15』の破壊力を、医師たちが語った」wired.jpより〉

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このアサルト・ライフルが乱射事件に度々使われるため、非難の対象になってきた。レミントン社も、ブッシュマスターというAR-15型のライフルが、サンディフックの事件で使われたため、遺族から訴訟を起こされている。

一九九四年から二〇〇四年の間はアサルト・ライフルの販売が禁止されていたのにもかかわらず、それに近い製品は売り続けられていたというから抜け穴だらけだったわけだ。

僕がたった一回だけ経験したスポーツとしてのハンティングだが、明らかに銃弾を連射するような状況はありえない。”Assault”は急襲という意味だから、アサルト・ライフルはスポーツ用品ではなく、もはや兵器だ。
銃全体がいけないという理屈に屁理屈を返すことが許されるなら、野球のバットだって凶器になる。それに僕はカウボーイとして牧場で働いた経験を通じて、ライフルの必要性をよく知っている。
ハンティング自体の是非は、肉食にもかかわるので、ここでは論じない。

ただ、僕はハンティングをスポーツとして楽しみ、親が子に釣りを教えるようにライフルの扱い方を手取り足取り指南するような文化の一部に触れてきた。今でも交流のある、学生寮のルームメイトであった友人は、父親と狩った鹿の頭をいくつも部屋に飾っている。
日本人から見たら残酷でバカらしい趣味なのだけど、都会と大自然の環境の差、ピストルとライフルとアサルト・ライフルとマシンガン、スポーツと虐殺を一緒に考えると反発が必至であることはわかっている。できることから始めるなら、やはりアサルト・ライフル(とそれ以上の銃器)は民間に不要だと思う。過剰だと思う。

乱射事件が起きて、銃反対運動や、規制を求める声を聞くたびに、僕はあの日、授業の終わった教室で、日本からの留学生にケンタッキーらしい文化を伝えようと
「ショータ、お前はハンティングしたことあるか?」
と、声をかけてくれた時のブライアンの黒くて大きな瞳と、「いいか……」と言う南部訛りを思い出す。

人は「好き」でできている

先月、頼まれて講演をしたので、そこでお話ししたことを編集してお伝えしようと思う。

依頼は兵庫県立図書館からで、読書推進事業の一環として、若い人たちにもっと本を読んでもらおうというのがテーマであった。

今さら言うまでもなく出版業界というのは大変つらい状況にあって、以前は「雑誌が売れて書籍を支えている」と言われていたが、今や雑誌も、漫画すらも売れていない。出版市場はピークであった約二十年前の半分近い落ち込みだ。
それなのに出版社一社の出版点数は増えていて、つまり乱暴にいうと粗製乱造なのである。

出版不況より深刻 漫画単行本、売り上げ激減 市場規模はピークから半減 - 産経ニュース

そんな中、大人たちが「子供や若い世代に本を読んでもらいたい」と言ったからって、大人自身が読んでいないのに虫がよすぎるというものだ。

各メディアの一般的な特徴を挙げると:
テレビは音と映像が出るから影響力が大きい。
ラジオは発信者と受信者の親密度がもっとも高い。
新聞は情報の信頼度が高い。
雑誌は専門性が高く、保存がしやすい。
書籍は「期待値」がもっとも高い。
と、このように言われてきたのだが、インターネットが発達し、SNSが登場するともはや影響力、親密度、専門性などについてはトラディショナルメディアをすっかり凌駕してしまった。信頼性については玉石混交なのは言うまでもないが、テレビや新聞が扱わない「ホントの話」もネットで暴露されることも多いから、使い手のリテラシーによっては有用である。
ウェブの記事は書き手と編集者がノウハウを蓄積して、いかに引き込むか、クリックさせるか、一気に読ませるかというテクニックがふんだんに取り入れられて、書籍のようにどうしたって一ページ一ページめくらざるをえない、面倒くさい、時間もかかる、おカネもかかるものは、そりゃ勝ち目はない。

「期待値」を説明すると、お金を払って買ったものだから、当然おもしろくあってほしい、役に立ってほしい、知らないことを教えてほしいという期待度がハナから高いのだ。しかも映画のように眺めていれば進んでいくものではなく、自分の読解力を使って読み進めなければならない。
それはすなわち、「おもしろくないものは読み切れない」のである。

それにもかかわらず、先述のように出版社はとりあえず明日のメシのために粗製乱造だから、状況はますます重苦しいものになる。

本当は、「本を読むのは楽しいから」と、声を大にして言いたい。若い人が想像力と感受性を伸びやかに育むのに、本はうってつけなのだ。
それを言い換えると、「おもしろい人間になれるから」であると思う。僕の知っているおもしろい人というのは、皆よく本を読んできている。おもしろいというのは、人を笑わせる能力のほかに、ハッと気づかせてくれるとか、ウーンとうならせてくれるとか、刺激を与えてくれることだ。「面白い」の語源は、「目の前がパッと明るくなる」ことだそうだ。明るくなることを、白くなると昔の人は表現したのだが、そういう気質を持った人たちのこと。
あなたの周りのおもしろい人のことを思い浮かべてみてほしい。どうだろう?

そして、そういうおもしろい人がいる、楽しいところに人は集まる。そういう人に、自分は今さらなれないとしても、自分の子供や将来のある人たちにはなってほしいと願うのは当然のことだと思う。

「人生は『好き』を登る山」のことである。実はこれが、僕がつけた講演のタイトルだったのだが、副題を「本は最高のガイドです」とした。

「好き!」という衝動を大切にして、それを探求していくことによって、いろんな出会いがあったり、発見があったり、道を選択する際の理由になったりする。そして、その探求には終わりがない。

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好きを追求することにはオマケもあって、何事も自分の好きなことを通じて学ぶと、勉強とか訓練とか苦しそうなイメージを持つことなく進めることができる。
たとえば英語。これを身につけたいなら、自分の好きなことを通じて覚えるのが一番よいと思う。釣り好きなら、アメリカの釣り雑誌を読むといい。知らない単語も、釣りのことなら想像ができるかもしれないし、辞書で調べるのも「知りたい」という気持ちがそれを苦にさせない。
そして、雑誌やウェブサイトで知った場所に、いつか私もこういう川で、湖で、釣りをしに行きたいと思えれば、この先の楽しみがまたひとつ増えるではないか。実際にそれを叶える時には、航空券の手配も、釣り免許の取得も(アメリカの場合、免許がいる)、レンタカーでのルート調べも、英語をものともせずグイグイできてしまうものだ。

好きなことを、もっと知って、もっと好きになるのに本は欠かせないと思う。一冊一冊、専門家が書いたものだからだ。小説だって、その世界を書こうと思ったら、(本を読んで)調べに調べて専門家に近くならないと書けないだろう。そして、ありとあらゆることが本になって世に出ている。

僕も、自分が好きな、山歩きの本、旅の本、革の本、アメリカの歴史の本などはたくさん読んできた。何年も前に本で知ったジョン・ミューア・トレイルを、昨年ついに歩いてきた。
monthly-shota.hatenablog.com

僕が『カウボーイ・サマー』という本を書いたのは、カウボーイについて知ることができる日本語の本があまりにも少なかったからだ。
会社での仕事まで辞めて、本に人生を狂わされたと言ってしまえばそれまでだけど、書いてよかったと思う。だって、これから何年でも、カウボーイに興味を持った人はこれを読むことになるのだから。若い人たちに大きな世界を覗いてもらう手伝いができるのなら、子供を持たない僕にとって大変光栄なことだ。

結論めいたことを言うと、子供に本を読ませたいなら、彼や彼女が好きなものに関する本をそっと身近なところに置いておくことではないだろうか。
「読みなさい」とは一言も告げずに、手の届くところに用意しておけば自ら読み始める。そういうものだと思う。

ここで重要なのは、自分が彼らに読ませたいものではなくて、彼らが読みたいであろうものを差し出してあげることだ。夏休みの宿題としての読書感想文もそうだが、オトナが読ませたい名作だとか古典文学なんかは、子供には退屈でガマンできないものだ。わざわざ本を嫌いにさせるような行為だ。

また、大人が夢中で本を読む姿を、子供たちに見せてあげてほしい。
「なにがそんなに楽しそうなんだろう」と、思わせてあげてほしい。

僕の父親は、夜になると早々に寝室に引っ込んでいたので、「寝るの早いなぁ」と思っていたのだが、実はベッドで本を読んでいたようだ。亡くなって十年以上がたつが、書斎には膨大な量の本が遺されている。僕は実家に帰るとたまに、そこから難解すぎずにおもしろそうなものをピックアップしてもらって帰る。

去年は『トランプ自伝』(早川書房)という本を拝借した。父親が一九八八年に初版を買っていたものだ。
アメリカの現大統領であるドナルド・トランプ氏は、当時四十二才で資産が四〇〇〇億円分あって、若い時はハンサムだったからアメリカンドリームの体現者で、スーパースターだったようだ。巻末の訳者あとがきに、驚きの言葉があった。
「美しい妻イヴァナは言う。『あと十年たってもドナルドはまだ五十一才です。(中略)大統領選に出馬することもないとは言い切れません』」
三十年たって、本当にそうなっちまったんだ。

この本はちくま文庫から復刻されているから、興味のある方は読んでみてください。彼がニューヨークという街に自分の理想を持って、再開発という複雑な交渉と巨額の投資がからむ仕事にどう取り組んできたのかわかる。

本を読んでいると、こういうおもしろい体験もある。
これは僕がアメリカが好きだから、やはりアメリカ好きであった父を通じて出合ったおもしろさである。

恋愛を例に出すまでもなく、好きなことというのはどうしようもない。好きなものは好きで、本を読んでそれをもっと好きになって、大好きになると、いいことがいっぱい待っている。恋愛のように相手はいないから、自分でそれをどこまで好きになっても拒絶されることもないだろう(合法な限りにおいて♡)。

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そうして、「好き」を通じて自分独自の世界を持つことこそが、幸せに生きる方法なのではないだろうか。
明日、ご自分が好きなことを思いながら、本屋さんを訪ねてもらいたいと思う。

あなたにとっての、大切な一冊が見つかりますように……。

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「キ、キミらはおもしろいのか?」  

ちょっと思い出話を。
一九九〇年代と二〇〇〇年代の間の頃のことである。僕はアメリカで大学を卒業したあと、帰国して法政大学の大学院に進学した。日本の大学生活というものを知らなかったし、それらしいことを体験してみたいと思って、「そうだ、サークル活動だ!」と思い立った。
アメリカには(少なくとも 僕がいた二つの大学には)サークルというものはないのである。スポーツをしたい場合は、大学のチームに入ってやる他はない。映画研究会とか落語研究会のような文化系のサークルは皆無であった。
ちなみに、ゼミというものもないので、僕はいまでもゼミというのが何をするところなのか知らない。

大学院には単位互換制度という便利な仕組みがあって、別の学校の講義を履修しても、それが認められたクラスであれば、自分の単位として数えられるのである。日本のキャンパスライフを満喫したかった僕は、家から近かった立教大学のクラスをひとつ取ることにした。
池袋の立教大のことは「なんか黒い服着たおしゃれなやつらが多い」ということくらいしか覚えていないのだが、そこで、壁に貼られたチラシを目にした。
「お笑い工房LUDO 立ち上げメンバー募集」

そう、僕はお笑いサークルを探していたのだ。
それは早稲田のサークルだった。法政で院生をしながら、立教で早稲田のサークルを見つけたわけだ。さっそくその頃はじめて手にした携帯電話で連絡をして、メンバーに会いに行った。

福井くんという子(僕は大学に入学したての人たちより、すでにだいぶ年上だった)が、高校に進まず一緒に上京してきた弟と住んでいる、早稲田近くの部屋に会いに行った。ほかに、沼田くんという幹事長の男と、江藤くん(仮名)とか、佐藤くん(仮名)とか、奥山くん(仮名)とか、当時は7、8人のメンバーがいただろうか。

どんな楽しげな元気のよい若者に会えるのかと思って行ってみたら、お笑いをやりたい人たちのほとんどは学生生活の敗者みたいな人が多いことを知った。
「え? 君たちは学校で、クラスで、一番おもしろかったのか?」
初対面なのに、思わずそんなふうに訊いてしまった僕はその場の空気を悪くした。
早稲田にいるくらいだから勉強は苦手ではないのだろうが、スポーツに秀でているわけでもなく、リーダーシップがとれるわけでもなく、当然モテないし、カネもない。僕もモテないしカネはないのは同じだったのだが、快活でもなければ、活動の展望もそんなになさそうな面々を前に、今後がやや不安になったのだ。

特に福井兄弟は、親元を離れて大阪から出てきたはいいが、自分の生活をまともに構築することすらままならないような感じであった。とにかく、みんなの集合場所として使っていた彼らの部屋が汚かった。気付けば、ベランダに布団が何ヶ月も干したまま、というか雨ざらしだったし、風呂は泥の中に棲む生物を飼っている水槽みたいになっていた。
「僕は本当はきれい好きなんです。だからこそ、もうあれらを触ることもできないんです」
と言っていた福井くんの兄の方はちょっとおかしなやつで、しょっちゅう手を洗っていた。一度始めると、何分でも洗い続けていた。
彼が洗面所でシャカシャカ始めると、僕たちは「またかよ」と放置していたのだが、当時は強迫性障害という言葉も知らなかった。なにか潔癖症のひどいやつだとは思っていたが、「医者に行け」とは誰も言わなかった。

ある時、兄弟となにかの用事のため電車で出かけた時も、彼は駅の便所で「ちょっと待ってください」と、手を洗いはじめた。僕はしばらく待っていたのだが、約束の時間に遅れそうだったためしびれを切らし、まだ洗い続ける彼の横から腕を伸ばし、キュッと蛇口を閉じた。
「ああああぁぁぁ……」というこの世の終わりのような彼の声を今でもよく覚えている。

奥山くんは普通に見れば見た目も悪くないし、早稲田の学生としてもっとありきたりな楽しい学生生活を送れそうなものなのに、異様に風呂が嫌いだった。「もう一週間入っていません」などと、なにかの記録を伸ばすかのように平然と言った。
「今日は電車で座ってたら、隣りの女性が席を立っていきました。へへへ」
時は、もう二十一世紀になるやならんやの頃である。

佐藤くんはとても理想の高い人物で、その理想と自分の能力との乖離にいつも苦しんでいるようなところがあった。ギョーカイ人でもないのに、尊敬するダウンタウンの松っちゃんのことを話す時には「松本さん」と言った。僕らはそれに慣れたが、他のサークルの人と交わる時にも「松本さんは」と話すので失笑を買っていた。「知り合いか」と。

江藤くんは、当時においてもすでに古めだった田原俊彦、トシちゃんがなぜか大好きで、コントを書かせても、最後はトシちゃんのダンスを完コピして悦に入りたがった。
「それいるか?」

沼田くんは一番おもしろくなかったのだが(笑)、そんなダメ人間の集まりの中、最もコミュニケーション能力が高かったので幹事長(リーダー)を務め、友人の何人かをライブの際の照明や音響係として引っ張ってきたりして、よく運営したと思う。

定期的にライブを開いて、チマチマと、それでいてそれなりに熱心に活動を続けた二年目、ある大手芸能事務所がお笑い部門の創設を目論んでいて、お笑い志望学生の青田買いを目的に、東京の大学のお笑いサークルに声をかけて「学生お笑い選手権」のような大会を開いた。十数の大学から、二十近い団体が参加したトーナメント方式だった。
早稲田からは僕らを含めて三団体が出場していて、今でいう「かもめんたる」の二人や小島よしおさんもいたWAGEと、寄席演芸研究会だったかと思う。

学生のやることだから、今観たらきっと恥ずかしいし稚拙なんだろうと思うけど、僕ら「お笑い工房LUDO」は、真剣に取り組んだ甲斐あって、二回勝って、別の日に定められた決勝大会に駒を進めた。
決勝の会場は渋谷のクラブ貸切りで、お客さんはギッシリ。司会はアンジャッシュだった。アンジャッシュは当時からおもしろかったなぁ。
審査委員が五人くらいいて、中にどこかの大学のミスキャンパスの女の子がいた。
アンジャッシュの渡部さんがコメントを求めると、
「コントっていうのはー、脚本の構成と演技力の勝負だと思うのですがー……」
「お前になにがわかる!!」
この、会場すべての声を代弁した児嶋さんのキレ芸が、その日一番大きな笑いだった。

僕たちは完全に会場の雰囲気に飲まれたのだった。僕たちだけでなく学生演者の誰もがそうであったと思う。結果は惨憺たるものだった……。

その芸能事務所の担当者は、よしもとから移籍してきた敏腕マネージャーと言われていた方で、僕ら学生から敬われていたし、怖れられてもいた。
僕はある日、彼から「前田、うちで一緒にやらんか?」と誘われた。
僕はその時すでに翌年電通に入社することが内定していたので、丁重にお断りした。
彼は「そっか」とそっけなく受け入れたあと、こう言った。
「この仕事は『人買い』みたいなもんだ。だから、俺は人を見る目だけはあると思っている。がんばれよな」

ご本人はこの言葉も、僕のことも覚えてはいないだろうけど、僕はなんとなくこの時かけられた言葉を励みにしている。彼の誘いに乗って、芸能事務所に行っていたら、きっと売れないまま芸人か放送作家をしていたかもしれない。今、売れない物書きをやっているのだからそれは確信に近い思いがある。

 

あんまり人に話したことのない、自分の黒歴史みたいな二十年近くも昔のことを書いたが、あれはあれで、僕にとっては狂奔の青春の一部で、楽しかった記憶しかない。

ふと思い立って「お笑い工房LUDO」を検索してみたら、今でも早稲田にあるし、当時は非公認団体みたいなもんだったのに、ウェブサイトには公式サークルとして一五〇名が所属していると記載がある。冗談だろ? よしもと主催の学生お笑い団体の大会で、LUDOのコンビが優勝もしている。マジか。
今のメンバーは、設立当初のことなど知らないだろうから、これが誰かの目に触れるとうれしい。

 

福井兄弟は、松竹芸能所属のお笑いコンビとして今でも売れないまま活動している。
江藤くん(仮名)は「シエ藤」というふざけたペンネームでライターをしている。肩書は「田原俊彦研究家、生島ヒロシ研究家、松木安太郎研究家、プロ野球選手名鑑研究家」だ。インタビュアーとして、何度も田原俊彦さんに会っているらしい。
沼田くんはお酒関係の会社で働き、世界を飛び回っている。
他の彼らも元気にしているといい。

おもしろくない毎日を無理矢理おもしろくしようとしていた、あの得体の知れないエネルギーが費えるのを怖れる、青春も後期にさしかかった四二才の年の瀬である。

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