月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「寅よ、ちょっとは役に立たんかい」

二年前の夏、僕がカナダでカウボーイをしていたある日、日本の主人(妻)からメッセージが来た。
「猫飼ってもいい?」
僕は猫好きで、小さい頃から猫を何匹も飼ってきたけど、主人は犬好きで、実家で犬を飼ってきた。だから意外であった。余談だが、人間のタイプとしては、僕は好きな人には従順な犬タイプで、主人は気まぐれな猫タイプである。僕はそれを、あまりに気分屋な彼女に指摘したことがあった。
「それ見ろ、君は犬好きというが、人間のタイプとしては完全に猫で、猫好きな僕は……」
ここまで言った僕にすかさず返ってきた、彼女の言葉はこうだ。
「お前は虫や」

こんな感じなので、僕が妻を主人と呼ぶ理由もなんとなくお分かりいただけるかと思う。

とにかく、主人の妹が道端で子猫を拾ってきたというのだ。自転車にでも轢かれて、死にかけていたところをたまらず救って獣医に連れて行ったのだ。後ろ足が麻痺しているようで、医者も「今夜持たないかもしれないので、点滴はするけど預かれない」とさじを投げたそうだ。親猫はどこへ行ったのか、栄養失調で衰弱しきっていた。
ところが、この子猫は義妹の家でみるみる回復していき、脚を引きずったまま動き出した。その頃の画像も添付されていた。
こんな子猫ちゃんを見せられて、拒絶できるわけがあろうか。

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僕が帰国すると、我が家では犬も同時に飼うことにした。大阪の鶴橋にある動物シェルターから、かねてより主人が目を付けていたヨークシャーテリヤを引き取ってきた。オドオドしていてみすぼらしくて臭い犬だった。
キジトラの猫には寅次郎、犬にはジョージと名付けた。両方ともオスだから、日米を代表するいい男である、車寅次郎とジョージ・クルーニーから取った名前だ。

犬は飼った経験がなかった僕は、犬ってこんなにかわいいものなのか、とすぐにジョージを溺愛し始めた。ところが、猫好きの僕が発狂しそうになるほど、寅次郎はクソ猫なのであった。人を咬む。甘噛みのレベルではない。犬を爪で襲う。エサを奪う。キャットタワーから、カーテンレールを伝って、エアコンに登る。台所を漁る。あらゆるビニールの物や新聞をグチャグチャに咬む。食器棚やクローゼット、下駄箱など入ってほしくないところ全てに入る。料理しているまな板の上を歩く。その他、こいつの悪事は数え上げたらキリがない。

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僕の実家は、僕が幼稚園児の頃から通算九匹の猫を飼ってきた。どの子も性格が違っていて、それぞれに思い出がある。ほとんどの子は車に轢かれて死んでしまった。思い出すと今でも涙が出てきてしまうやつもいる。寅次郎のような酷い猫はこれまで見たことがなかった。

猫大好きのうちのおかんが我が家を訪ねてきて、
「寅ちゃんは、画像だけでいいや……」
と言い残して、流血しながら帰っていったくらいだ。

カウボーイとして、家畜を時に乱暴に扱う仕事から戻ったばかりの僕は、寅次郎に本気で腹を立てることもあった。動物虐待と言われようが、諭すことができない獣に分からせるには痛みで覚えさせるしかない。追いかけ回してブチのめしたことも一度や二度ではない。その代わり、僕の手もカウボーイをしていた頃よりも傷だらけになった。

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僕は電通を辞めて、牧場でのんびり気楽にカウボーイをやっていたのではない。「カウボーイとは何者なのか」を解き明かす本を書くつもりで長期の取材をしていたのだ。無名のコピーライターの僕に出版のあてなどなかったが、帰国して間もなく執筆を始めた。

毎日、毎晩、書斎にこもっては取材ノートと資料を机に置いて書き続けた。その部屋には寅次郎に入ってきてほしくないのだが、ドアに飛び付いて開けることをすぐに覚えてしまった。してはいけないことは一切覚えないのに、してほしくないことはグングン学習していく寅に、恐ろしささえ感じた。
かなり書き進めたある時など、コーヒーを淹れている隙に書斎に入った寅が、PCのキーボードを踏んでいて、「hhhhhhhhhhhhh..........」と九ページ分くらいに渡って打っていたこともあった。Deleteキーでなくて本当によかった……。

僕が結婚した時に奮発して買った革張りのソファはレバーを引くと足乗せ台が出てきて、テレビを観たり昼寝するのに最高だった。寅はそこにションベンを繰り返した。リビングルームに浮浪者がいるような臭気が立ち込めるようになり、僕は泣く泣くそれを粗大ゴミに出した。ゴミ箱もフタ付きの一万円もする頑丈なやつに替えた。キッチンの三角コーナーもフタがあるものにした。その頃の僕に収入はない。

結局取材に三ヶ月、執筆に三ヶ月がかかった。依然、出版のメドはなかった。

寅に対して「去勢すれば大人しくなりますよ」というアドバイスも受けたが、大人しかったのは去勢した当日だけであった。

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こいつは、去勢手術のみならず、ロボトミー手術でも受けさせるしかないのではないか。幼くして頭を打っているから、すでに頭がおかしいのか。
主人ともども、途方に暮れた。こいつは悪魔か。

それなのに、寅次郎というのは、顔が抜群にハンサムなのだった。

中身はクソ野郎なのに、見た目は疑いようもなく美しい。有名人に喩えるなら、沢尻エリカ様か赤西仁のようなものだ(いえ、ご本人たちの実際は知りませんので、あくまでもイメージですが)。

僕が寅次郎の醜態と暴挙をSNSに晒すと、何人かの方が「かわいい」「かわいい」とバーチャル的にかわいがってくれるようになった。「寅ちゃんファン」を自認する人も出てくるようになり、「雑誌でこういう猫特集がありますが、寅ちゃんの画像を送ってはいかがですか?」なんてお誘いも受けた。うれしはずかしいことである。

そんなこんなで一年半が過ぎ、僕も寅次郎との付き合いについて学習した。寅の体重は四キロを越え、相変わらず僕の手も家具も傷だらけなのだが、寒い日などスッと布団に入ってきて、腕枕で寝る。その時だけは、お腹だろうが肉球だろうが触らせてくれるサービスタイムだ。床にペタッと寝ころび、背中を掻けと催促してくる。耳を触ると気持ち良さそうに目を細める。最近は僕に抱っこされたままうつらうつらするのが、どうもお気に入りのようだ。

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カウボーイを巡る、僕の個人的プロジェクトにも同じだけの時間が与えられ、この度、やっと出版される運びとなった。
僕の新刊『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』は、「本の街・神田でいちばん小さな、ひとり出版社」がキャッチフレーズの、旅と思索社から刊行される。
前著『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』(毎日新聞出版)同様、大阪の小さな本屋さん・まや書店に協力を仰ぐことにしよう。
その時の経緯は以前に書いた。まや書店のご主人は、今日も本や雑誌を抱えてあちこちへ配達している。

まや書店:Tel. 06-4706-8248 Fax. 06-4706-8253

monthly-shota.hatenablog.com

寅次郎よ、お前のためにオレはかなり出費した。ちょっとは家計に貢献しろ。

前回はまや書店でお買い上げくださった方にはレザーのしおりを付けたのだけど、今回は「寅ちゃん缶バッヂ」をお付けします(いらん!)。苦し紛れの、僕ひとりが投資できる販促活動です。カウボーイにはなんの関係もないけど、これしか思い付かなかったのだ……。二種類ありますが、どちらがもらえるかは指定できませんので、ご了承ください。

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『カウボーイ・サマー』は、ひとりのコピーライターがキャリアを捨てて挑んだ、ひと夏の冒険の本です。日本人はあまり知らないけれど、北米人の心の根幹に宿るカウボーイのほぼ全てが書かれていると言っていいと思います。いろいろあって、ちょっと発売日が当初の予定より遅れますが、是非お読みいただきたいです。

ほな、寅ちゃん、ジョージ、一緒に寝よか。

amazonへのリンク:
『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』前田将多著(旅と思索社)

 

「またやるんですか、『盗聴法』という言い換え」

2015年の夏、安全保障法制の施行に関連して、日本中が喧しかったはずである。はずである、というのは当時、私はカナダの牧場でカウボーイとして働いていたので、そこの母屋にある弱いワイファイにスマホをつないでニュースを閲覧する以外に状況を知る術がなく、直接的にあの喧噪を知らないのである。

そして、私はそれを幸運に思ったものである。安保法制を知らないことではなく、あの騒ぎに日常生活や精神的安寧を阻害されずに済んだことを、である。

安保法制というのは、1つの新法案と10の改正法案を束にしてまとめた呼び方で、内容はとても複雑なため、落ち着いて仔細に検討しなくては本来理解が難しいものだった。

安保法案とは、そもそも何? わかりやすく解説【今さら聞けない】

だから、それを「戦争法」と呼んで大きな声で圧倒しようとする活動は、ある種の方々にとっては見事な戦略で、多くの国民にとっては不利益なことでもあったはずだ。

重要な部分を改めて説明しておくと、大きな目的は「アジア太平洋地域でも、国際社会全体でも、平和、安全、そして繁栄を脅かす、様々な課題や不安定要因があきらかになって」いることに鑑み、「日本の平和と安全を確保するためには、紛争を未然に防ぐ力、つまり、『抑止力』を高めることが必要だった」からである(カッコ内は首相官邸HPの言葉)。あー、まどろっこしい。

「なぜ」、「いま」、平和安全法制か? | 首相官邸ホームページ

 つまり、これまでの法ではできないことが多すぎて、充分に国を防衛できないと政府が踏んだわけだ。なぜなら、北朝鮮核兵器保有してミサイル発射「訓練」を強行し、チャイナは南シナ海の領有権の不明瞭な地域の支配を軍事要塞化により着実に既成事実とし、武装した「公船」が我が国の領海侵犯、接続水域への侵入を繰り返しているからだ。繰り返されすぎてもはや「昨日は花粉が多かった」ほどの話題にもならない(もちろんこれが狙いだろう)。

そんな中、有事の際には自衛隊海上保安庁は映画『シン・ゴジラ』に描かれたような笑えない混乱に陥ることは明白である。想定される敵が法の網目をかいくぐって突いてくることも想像に容易い。その隙間を小さくして、「抑止力を高める=攻められにくくする」のが安保法制の役割であった。どこに「戦争を始める理由」があるというのだろう。

法制の内容のポイントは、集団的自衛権と後方支援だ。

「日本が直接的な攻撃を受けたわけではないけど、アメリカがやる時、ジャパンもできることをする」
「戦闘地域以外ならあちこちで支援活動をする」

現実に即して簡略化すると、こういうことだ。本来は簡略化してはいけないのだが、あまりにまどろっこしい。まどろっこしくさせられているのだ。「ああいう人たち」のために。

戦闘地域以外を「後方」といい、そこで行なう弾薬や食糧、燃料といった物資、人員の輸送、車両や武器の修理、負傷者の治療などを後方支援という。その活動をこれまで日本独自の限定的な方法で行なってきたが、それを拡大をするということであった。

当然、「日本が戦争に巻き込まれる」という不安があり、安倍首相はわざわざそれを「絶対にない」と、強い言葉で否定した(2015年5月14日)。徴兵制も「明確な憲法違反で、導入は全くありえない」と言明した(2015年7月30日)。

やると「約束」した消費増税も延期した首相だから信用できないだろうか。

しかし、人が何度同じことを言っても、どう説明をしても、「信用できない!」「ウソつきだ!」「ヒトラー!」と叫ぶばかりでは議論にならない。野党をはじめとした彼らが聞く耳を持たずに、建設的議論がおよそ聞こえてこなかったことが、冒頭で言及した国民への不利益だ。もっと言えば、多くの常民から「なんか気持ち悪い人たちが目を吊り上げてあることないこと決めつけてるだけなので関わりたくない」と、興味を失わせてしまった。

 正直言って、広範囲な戦闘になった場合、支援しようにも「ここは戦闘地域ですか? そうではないですか?」「もしそうでないなら、これはしていいですか? よくないでしょうか?」「これは自衛と言えるでしょうか? どこまで武器を使っていいでしょうか?」など、この国は雁字搦めでとてもまともな働きはできないのだが、かと言って、「なんにもしません」では本当に国が滅びることもありえないとは言えない。この複雑さと不自由さは、敗戦国の桎梏として逃れられまい。その中で国は果たせる責任を全うするべく、安保法制なり憲法解釈の変更という無理くりがあったと、私は考える。

 議論をするなら、「戦争はダメ、絶対!」ではなく、「その法制で、本当に国を守れるのか」という視点でするべきではなかったか。ダメ絶対なことくらい誰でもわかっているが、この世に絶対は「人はいつか死ぬ」以外にありえないのだ。

その上で、日本の法律は、防衛体制は、そして憲法はどのような進展をするべきなのかという議論がなされるべきではないだろうか。世界が動いていく以上、日本も様々な面で変わっていかざるをえないのは明らかだ。

憲法を改正しろと言っているのではない。私は個人的には「憲法九条を最後まで保持したまま、国防にできる限りの布石を打ち、策を練り、ズルかろうが理想と現実に齟齬があろうが、あらゆる手を尽くすべきだ」と考える者だ。なぜなら、繰り返すが、憲法九条は成り立ちはどうあれ、歴史によって与えられた桎梏だからだ。「永久」とそこに書いてあるからだ。

 二年が経ち、いま同じことが繰り返されようとしている。共謀罪の構成要素がより厳格化されたテロ等準備法だ。

重大な犯罪の実行を目的とした組織的犯罪集団が対象で、
具体的な計画の存在があり、
実行にうつすための準備行為
が要件となる。通信傍受法を「盗聴法」、安保法制を「戦争法」と呼び換えたように、これを「自由を奪う共謀罪」などとして、あたかも一般国民が常に監視・盗聴されるという言説や、飲み屋の与太話で逮捕されるとか、「社会を変えようと相談するだけで犯罪になる」などいう程度の低いデマに終始することが賢明なこととは思えない。共謀罪それ自体が天下の悪法であるわけでもない。批判があったから、厳格化・具体化で対応しただけだろう。

 監視についていえば、2004年に新宿のコマ劇前広場に監視カメラが設置された時にも「監視社会!」という批判があった。住基ネットでもそう、マイナンバーでもそうだった。

その後映像技術やインターネットが急速に進化し、現代は監視など当たり前になっている。防犯カメラの設置に反対する人などもはや皆無に近いのではないか。

しかも、バカげたことに(とあえて書くが)、「自由が奪われる」「わたしたちは全員政府に監視されている」などとSNSに書き込む人がいる。監視と呼ぶかどうかはその人の自由な解釈に任せたとしても、現代社会とはすでにそういう世界だ。

「○○を殺す」とネットに書けば警察が追ってくるし、度を越えたバカをやればネットで拡散され、社会的に抹殺されかねないのがフツーのことだ(まぁ、このコラムもある程度は叩かれるだろう)。

グーグルとフェイスブックというのは、端的に言うと、「皆さんから個人情報をタダで提供してもらい、それをデータ化して企業に売るシステム」である。つまり、SNSに書き込んだ時点で、自分の素性や志向や思想を晒しているわけで、もはやそれが常態なのである。フツーのことなのだ。

 〈Eメールを送れば、その内容は、メール機能を提供しているメールサーバーに記録されます〉
〈携帯電話を使えば、かけた電話番号、受けた電話番号、通話時間、テキスト・メッセージ等々に加え、位置も記録されます〉
スマートフォンはコンピューターそのものなので、スマホにインストールされた様々なアプリケーションが、様々な情報をアプリケーションの持ち主に送り続けています〉
キンドル電子書籍や雑誌を読めば、誰が何をどの程度のスピードで読んで、どこにマークをつけたり、読み返したりしたかなど、全ての行動がアマゾンに送られます〉
〈買ったものや飲食したものは店のキャッシュ・レジスターやクレジットカード会社に記録されます〉
(以上は小林由美著『超一極集中社会アメリカの暴走』(新潮社)より)

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 グーグルにより我々一般人が受けている利益というのは計り知れないが、フェイスブックツイッターといったSNSでも、知り合うはずもない人たちと知り合えたり、情報に触れたり、データ分析された結果から、志向に沿った広告により新しいものを知ったり、好きなものに出合ったりできるという利点がある。鬱陶しい広告も多いから、一概に利点とは言い切れない気持ちもあるだろうが、利用するならそのように考えて楽しむ他ない。

前出の書籍が指摘するように、それにより富の一極集中が止まらないが、かといって個々人がネット利用をやめるわけにはいかない現実の方が、一般人がテロ等準備罪を怖れるよりも、問題としては深刻である。

このように、人はすでに丸裸にされているのである。だから、今さら政府が進めようとするテロ等準備罪が、善良な国民を裏で掌握するというような浅薄な扇動で時間を無駄に使うのはやめてもらいたい。国会での有限な時間は、森友学園問題でもうあくびが出るほど浪費された。

 ヨーロッパ各地やエジプトでテロ事件が起き、シリアでは化学兵器による一般人の殺戮があった。アサド政権の所為と断定したアメリカによる軍事基地への空爆と、ロシアの反発も世界が注視するところだ。

さらに日本に近いところでは、アメリカは北朝鮮への先制攻撃で、金正恩らの「斬首作戦」を実行するのかしないのか、これまでにない緊張が高まっている。その時、すなわち先ほどわざと簡略化して書いた「日本が直接的な攻撃を受けたわけではないけど、アメリカがやる時」、北朝鮮にいるであろう日本人拉致被害者を救出することは、果たして安保法や憲法の枠内において、日本政府に可能なのかどうか。
いま、大変重要なことである。

事実に基づかない噂を流したり、勝手なあだ名で人を呼ぶことは、それが学校であったらいじめである。いじめをする人間を普通の人は「卑怯者」と見る。そして、卑怯者に何が起きるかというと、
「人として信用されない」。

これに尽きる。

拙著の「はじめに」を転載します

拙著『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』が刊行され、おかげさまでまずまずの評価をいただいています。

売上ランキングのどこで1位とか、それはひとまず措いて、読んでくださった人が
「一気読みでした」
「せつない気持ちになって、ちょっと泣きそうになります」
「デザイナーは是非読んでほしい~! 読みやすく、面白く、楽しんで読めました」
広告業界と言わず幅広く若手の人に読んでもらいたい内容」
「ぶつける先のない怒り、仲間が疲弊していくのをどうすることもできない無力感。それを代弁して頂いた気がする」
「うんうん頷いたり、笑ったり、戦慄したりしながら読みました。粋でカッコよく、優しくて気持ちのいい本」
「人情味のあるじーんとくる内容」
「日本中の津々浦々まで届けたい」
「あらゆる産業で膝を打つ読者が多いと思う」
(以上はツイッターより)などなどのありがたい言葉を贈ってくださったのをうれしく思っております。

 

書いたからには読んでいただかないことには、何もしなかったのと同じですので、ここに「はじめに」の項を公開しておきます。

--------- はじめに ---------

私は二〇〇一年から十五年弱の間、電通に在籍して働いていた。主にコピーライターとして業務にあたっていたが、広告の文面を考案したり、テレビCMを企画するのみでなく、街頭イベントの企画、懸賞キャンペーンの企画運営、海外展示会ブースのプロデュースなど様々な仕事に取り組んだ。電車の発車メロディーの制作もした。

世間に誇れるような仕事は残していないのだけれど、電通社員では唯一「コラムニスト」という肩書を名刺に載せていて、どこの雑誌でも新聞でもなく、「月刊ショータ」という自分のウェブサイトに二〇〇三年から月イチでしょーもないコラムを書いていた。公私混同の肩書を許すとは、寛容な会社であった。

やがて、私が四〇才を目前に退職したのち、新入社員の自殺が労災認定されて以降、長時間労働の問題がメディアによって照らし出された。二〇一六年一〇月に私が書いたコラム「広告業界という無法地帯へ」が異様な反響を見せた。

私が入社する十年前にもあった若手社員の自殺も含め、電通の企業としての体質が問題視される中、私がそのコラムを書いた理由は、「広告業界外の人が、いかに問題の大局を見ることができないでいるか」ということに歯痒さを感じたからである。

少しでも電通に肩入れをするような文言を書けば、「電通擁護!」、「こいつは電通からカネをもらっているに違いない!」、「世論操作のための回し者!」などとあらぬことを言われる現代のネット社会において、少々の勇気がいるコラムではあったのだが、報道の着眼点と電通の会社としての対応の双方に目に余る部分があったので公開した。結果、電通及び電通以外の広告関係者、その他の業界で働く人たちから概ね賛意が寄せられ、胸を撫で下ろす思いであった。

この本は一本のコラムだけでは語り切れない、電通という巨大企業の現場と、広告業界の歪なところを、二十三本のコラムとして書き綴ったものである。一部は「月刊ショータ」に書いた過去のコラムを加筆修正したものである。

第一章では、普段は表に登場することが少ないため、世間からはおそらくミステリアスに思われているであろう、電通という企業について書いた。

第二章は、広告業界の内側で今日も巻き起こっている、バカバカしい実態を描写する。第三章は、広告業界とそれ以外のビジネス社会にも共通する、どこかピントを外した日本人の働き方について指摘してみた。第四章は、働く人に少しは役に立つことを書きたいと思ったので、ご参考までにどうぞ……。

所謂「暴露本」を期待される読者の方には、購入をおすすめしない。

電通一社を叩いて何かが解決する、改善されるならそうしよう。しかし、現実はそうではない。電通を始めとした日本中の広告会社、クライアント企業、制作会社など、全ての関係者が、一度立ち止まって己を顧みる時だと思う。

そして、もちろん、この問題がここまで大きな関心を得たのは、電通という見えてこない巨躯、自殺した彼女の華やかな経歴と美貌以外にも、日本社会で働く誰もが突き付けられる課題を孕んでいたからであろう。

私に対する「こいつ、どんだけ電通に洗脳されているんだw」という批判をネットで目にして、私は鼻で笑った後にふと、「多少そうかも」と自身を振り返ることがあった。若い時に初めて入社した会社で教育され、その世界しか経験しないと、確かに染まっていってしまう部分はあったと思う。

そんな自省も込めて、広告業界を一歩離れた場所から眺めてみたのが本書である。

私は、「元電通」であることを売りにしながら、古巣に後ろ足で砂をかけるような者にはなりたくないと願っている。電通には恩もあれば、感謝の気持ちもある。それがあるからこそ、鈍らな刃も向けたいと思う。

広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』というタイトルは、この社会が異常性を帯びていることに気が付き始めた皆さんに向けて、私自身が付けたものだ。

笑覧いただき、一度立ち止まる機会になれば、著者として幸いである。

 

以上です。

笑えて泣けて、生きていこうと思えるコラム集です。お一人でも多くの「ダイジョーブじゃないかも」と思っている方の手に取られるといいです。

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前田将多著『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』(毎日新聞出版

https://www.amazon.co.jp/dp/4620324396

「小さな本屋さんと僕と電通のかかわり」

電通関西支社には昔から出入りされている書店がある。まや書店という。

店舗は大阪は淀屋橋三井物産ビルの地下にあって、僕はそこにも行ったことあるのだけど、五人も入ったら一杯なくらい小さな本屋さんだ。

主人のおじいちゃんがいつも痩せた体で、雑誌や書籍を腕一杯に抱えて、電通社内の購入者に渡して回っていた。僕は定期購読したい雑誌やほしい本があると、まや書店にFAXして、その都度届けてもらっていた。

驚くほどいい加減なシステムで、注文した本をおじいちゃんがデスクに置いてくれて、僕が打合せや出先から席に戻ると、本と請求書がある。で、どうやって支払うかというと、「次に偶然会った時に払う」のだ。だから、全然出会わなくて、ツケをため込んでる人もいる。

おじいちゃんは、とてもいい笑顔をする人で、彼を面白がったクリエーティブ局員がいくつかのCMに出演させたりもした。画面で見ても、おじいちゃんはいい笑顔をしていた。

そのおじいちゃんが何年か前に亡くなった。本屋さんが亡くなっても社内のイントラシステムで訃報の掲示があるわけではないから、僕はそれを噂で耳にしたのであった。

僕は電通社内の、田中泰延さんはじめ、その時の局長とか本読みであろう何人かに声をかけて、連名で書店に弔花を贈った。

「お世話になったまや書店は今後どうなってしまうんだろう……」と思っていたら、その後若い人(といっても、僕より年上)が同じように本を腕一杯に抱えている姿を社内でお見かけするようになった。お話ししてみたら、あのおじいちゃんの息子さんだという。

この本が売れないご時世に、小さな書店を継ぐという意味がわかるだろうか。街を見渡せば、小さな本屋はつぶれて、大手のいくつかだけが辛うじて残っている惨憺たる状況だ。

息子さんは、その後もまや書店と付き合いを続けた僕の電通退職時に、五千円分の図書カードをくださった。五千円だ。一人の男が、雑誌を八冊だか十冊だか売り歩いて五千円を得る苦労は僕にはわからない。小さな本屋さんの一日の売上を知る由もないけど、それが小さな額でないことはわかる。

僕はありがたく頂戴して、街を歩いていてなにかほしい本に出合って、その値段が高くてちょっと躊躇した際に、図書カードを大切に使わせてもらった。

 

やがて、月日は巡り、僕が本を出すことになった。

僕は久し振りにまや書店さんに電話をした。彼は僕のことを覚えていてくださった。

「まや書店さん、僕はご恩を忘れてはいません。僕の本で、少しでも儲けてくださいませんか。つきましては、電通社内でチラシを撒いて、一冊でも多く、この本を売ってください。

僕は今、sunawachi.comというレザー製品を扱う会社をやっていますから、取引先である東大阪のブランドにお願いして、レザーのオリジナルブックマーク(しおり)を用意します。まや書店で買ってくれた人には、ノベルティとして付けてくださいよ」

彼は喜んでくれて、通常ありえない冊数を仕入れたようだ。

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僕としては、そりゃ本は売れてほしいし、本当のことを言えば紀伊国屋とかアマゾンで売れて、なんかのランキングにでも入ったら、販売促進的には効果的なのかもしれない。なんでこう、儲からない方儲からない方へ自ら行ってしまうのか、自分でもアホなんだと思う。

しかし、一方で、無名の僕が書いた本なんて、内容は絶対に面白い自信はあるけど、それだけで簡単に売れるはずなんかないから、せめてまや書店さんがちょっといい思いしてくれたらうれしいじゃないか。

 

そして、本の発売があと三日に迫り、僕はまや書店さんに再び電話をした。

「どうですか?」

「それが……」

彼はちょっと言いにくそうにした。

なんと、チラシはだいぶ配ったにもかかわらず、電通関西支社から予約は一件も来ていないのだという。

おいおい、元の同僚たちよ。先輩後輩、上司たちよ。僕が悪いんだけど、毎月給料が入ってくる生活を諦めて、何事かしようとして、果たして出版社に出してもらうに至った元同僚の本の一冊すら買ってくれないほど、あなた方は忙しいのか。

百歩譲って、元電通社員が電通について書いた本に関して、穿った目で見ることも可能だろう。しかし、文句は読んでから言ってくれ。かなりイケナイ内容も書いたけど、僕は広告業界へのエールを込めたつもりだし、業種にかかわらず組織で働く人、職場で悩む人の何かしらに少しでも役に立てるものを書いたつもりだぞ。

僕は元同僚たちの何人かに連絡をして、恥を忍んで申し上げた。

「営業するようですみません。でも、もし買ってくれるなら、まや書店に注文してくれませんか。電話番号は06-4706-8248です」

結果、心ある何人かが電話をしてくれたようだ。

そのうちの一人の後輩が、

「まや書店さんがうれしそうに、『前田さんのしおりが』『しおりが』って何度も説明してくれましたよ」

と教えてくれた。

とはいえ、このコラムを読んだ、まや書店や電通に無関係の方がわざわざ、そこで買ってくれなくていい。電通のそばのジュンク堂で買ってください。梅田駅の紀伊国屋で買ってください。スタンダードブックストアで買ってください(SBS心斎橋でもブックマークはもらえます。数量限定)。彼らも多めに仕入れてくれているから。近所の本屋でも(たぶん取り寄せになるけど)アマゾンだってもちろん構わない。買えるところで買ってくだされば、著者の僕が購入場所を指定するなんておこがましい。大作家じゃあるまいし、そこまで口出す身分ではないから。

……てな、すったもんだの末、3月2日にとにかく発売です。

広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』(毎日新聞出版

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とりあえず、hontoのリンクを貼っておきます。

honto.jp

自分はダイジョーブじゃないかも、と思っている人たちへ。

なにもできませんが、笑えて泣けて、生きていこうと思える本を書きました。笑覧ください。

「トランプ大統領就任演説に見るアメリカ人の限界」

ドナルド・トランプ新大統領の就任演説で、何をどのように言っているのか、全文を読んでみた。

www.huffingtonpost.jp

www.newsweekjapan.jp

演説における言葉遣いや品位を問う声もあったが、まぁ、なんと言うか、間違ったことは言っていないかもしれないが方法がアレな、アパホテルの社長が日本の首相になったようなものだし、ここはジャイアンが空き地で演説をかましている場面に脳内変換すると、多少のことは許せるはずだと思う。

ジャイアンはまず、列席者への謝辞を述べたあとに、オバマ前大統領とミシェル夫人に大統領職の引き継ぎが整然と平和的に行なわれたことに対して感謝を述べている。

“They have been magnificent. Thank you.”

のび太、すげーいいやつ。あんがとな!〉

確かにのび太は、いや、オバマ氏は、実行力には甘さが出たが、「崇高で、見事な」大統領であったと歴史に残ると思う。

 

“Today’s ceremony, however, has very special meaning, because today we are not merely transferring power from one administration to another, or from one party to another, but we’re transferring power from Washington D.C., and giving it back to you, the people.”

「このセレモニーは特別な意味がある。なぜなら、単なるひとつの政権からもうひとつへの、ひとつの党からつぎの党への移行ではなく、ワシントンDCからあなた方民衆への権力の移管であるからだ」

外国人である我々からすれば、これまで米国の、というか世界の権力や富を掌握してきたのは、ワシントンDCの政治家や政府関係者というよりも、トランプ氏のお膝元であるニューヨーク、特に金融街の連中のような印象があるのだが、このあたりには感覚の差異があるのだろうか。

彼は選挙演説の時さながらに、民衆を持ち上げる。

“This is your day. This is your celebration, and this, the United States of America, is your country.”

〈今日はあなた方の日だ。この祝福はあなた方のためだ。そして、この、アメリカ合衆国はあなた方の国だ〉

 

そして、自らが分断してしまった国に向けて、統一を呼びかけるのだが、やはり敵は外に求める。

“For many decades, we’ve enriched foreign industry at the expense of American industry, subsidized the armies of other countries, while allowing for the very sad depletion of our military.”

〈何十年にも間、我々はアメリカの出費によって他国の産業を富ませ、他国の軍隊に助成を与え、その間、自国軍には嘆かわしい消耗を許してきた〉

この辺りに現状認識と歴史観の雑さがあるように思う。外国企業を富ませてきたのは、主に発注主であるアメリカのグローバル企業の経営陣と消費者という名の「民衆」の共犯である。

アメリカはこれまで他国に軍事介入もしてきた。日米の戦争だって、直接的な侵略や併呑の危機的な関係にあったわけでもないのに、なぜ殺し合うことになったのか、両国の若い人たちなんかはよーく考えてみたら茫然とするのではないか。とはいえ、オバマ政権への批判はその外交的弱腰にあったので、軍の消耗については一理くらいはあるかもしれない。が、湾岸戦争あたりから戦争の理由をまともに答えられないような戦闘を繰り返させてきたのはオバマ以前の共和党政権だから、前政権だけに責任を負わせるのはフェアではない。

 

“We must protect our boarders from the ravages of other countries making our products, stealing our companies and destroying our jobs.”

〈我々は、我々の製品を作り、会社を盗み、仕事をなくす他国による破壊から、国境を守らなくてはならない〉

アメリカさんにそのまんま返すわ。町の喫茶店はスタバに、商店街はアマゾンに、定食屋はマクドKFCになったじゃないか。アメリカナイゼイションという社会学の教科書にも載っている現象は、今日や昨日始まったことではないだろうに。

ただし、アメリカ人になったつもりで読むと、もしくはアメリカを日本に置き換えて読むとある種の羨望は感じる。

“We will seek friendship and goodwill with the nations of the world, but we do so with the understanding that it is the right of all nations to put their own interests first.”

〈我々は世界中の国々に友好と親善を求めるだろう。しかし、全ての国は自国の利益を最優先にする権利があるという了解の上で、それを行なう〉

そりゃそうだろう。企業だってそうだ。おそらく交渉の達人と言われるトランプ大統領には釈迦に説法になってしまうが、我が国のそんな当たり前のことが公言しにくい不自由さを思う。「近隣国のために」とか「お客様第一」ではないのだ。過去への反省と、未来の国益は別の問題であるからだ。なんでも無料でサービスを追加追加してきた歪さも、日本の閉塞感に繋がっている。アメリカはアメリカ第一で、日本は日本第一で、ドイツはドイツ第一、チャイナは言わんでもチャイナ第一で、が当たり前なのだ。

 

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さて、ここからが、アメリカ人の限界を露呈するような演説内容だ。

批判の矛先はテロリストへ向かう。

“We will reinforce old alliances and form new ones, and you unite the civilized world against radical Islamic terrorism, which we will eradicate completely from the face of the Earth.”

〈我々は古い同盟を強化し、新しい同盟を築く。あなた方は、文明化された世界と団結し、イスラム過激派のテロリストたちをこの地球上から完全に殲滅するのだ〉

異論はない。

“When you open your heart to patriotism, there is no room for prejudice. The Bible tells us, how good and pleasant it is when God’s people live together in unity.”

日本人の私はここで「ん?」と思ってしまう。

〈心を愛国心に委ねるなら、そこに偏見の入り込む余地はない。聖書は、神の子らがひとつになって暮らすことがいかに幸せで喜ばしいことかを教えてくれる〉

いや、あの、国内のバイブルとか関係ない人たちともユナイトすべき時なんだけど……。

聖書に手を置いて、誓いを立てるのがアメリカの大統領就任式だが、この辺りがアメリカ人の限界であり、非キリスト教の日本人である私の理解の限界である。

アメリカ人というのは反省をしたことがないという、世界でも稀有な人たちだ。

船で大挙して大陸にやってきて、キリスト教の布教という名目で先住民を「救ってやる」という大義の下で虐殺をしてきた。これがマニフェスト・ディスティニーという、建国の礎となった考え方だ。原爆投下もそうだった。サダム・フセインの抹殺もそうだった。

なぜアメリカが、今のアメリカの在り方になったのか、誰かのせいにするだけでその反省もほとんど感じられない。

 

“Together, we will make America strong again. We will make America wealthy again. We will make America proud again. We will make America safe again. And yes, we will make, we will make America great again.”

〈共に、我々は再びアメリカを強くする。アメリカを再び豊かにする。アメリカを再び誇り高くする。アメリカを再び安全にする。そう、アメリカを、アメリカを再び偉大にするのだ〉

いいんだけどさ。自国の利益を第一に考えるのが当然なのだから。率直なところがトランプ大統領の美点でもあるから。しかし、オバマ氏のあとだけに余計に際立つ、この謙虚さの欠落が、とてもアメリカ人らしくて、過剰に謙虚で損をしてきたような日本人からすると、再びちょっと羨ましい。

安倍首相、岸田外相、マジで、この演説は「遠慮はいらないぜ」宣言なので、思い切り図々しくやり合ってきてくださいね、と思うのだ。本気で殴り合った者同士だけが、痛む手でお互いの手を握り合える、ということは去年の広島と真珠湾が教えてくれたことだ。

これにて日米の外交史に新たな章が立てられる可能性もなきにしもあらず、と信じたい。

「電通はなくならない。自由がまたひとつ、なくなる」

去る十二月二十三日に、電通が二〇一六年の「ブラック企業大賞」に選ばれ、二十六日には厚生労働省長時間労働削減推進本部(本部長・塩崎恭久厚労省)が、過労死ゼロを目指す緊急対策を公表した。

・企業に対し、実働時間と自己申告時間の乖離がないよう実態調査を要請

長時間労働等に係る企業本社に対する指導、労基署による立ち入り調査の実施

・是正指導段階での企業名公表制度の強化

・複数の精神障害の労災認定があった場合、企業に個別指導

パワハラ防止に向けた周知啓発の徹底

産業医への長時間労働者に関する情報提供の義務付け

・夜間・休日に相談を受け付ける「労働条件相談ホットライン」を毎日開設

などが発表された。

二十八日、電通と自殺した新入社員の直属の上司が書類送検されるに至り、記者会見の席で石井直社長が明くる年1月での辞任を表明した。

 

会見で記者の質問に答えながら、石井社長は、「プロフェッショナリズムの意識が強く、一二〇%の成果を求める社員が多い。仕事を断らない矜持もあり、それらは否定すべきものではない。しかし、それら全てが過剰であり、その社風に施策としての手を打てなかった責任を感じる」と述べた。

中本副社長は、「電通ブラック企業ではない、と声を大にして言いたい。が、世間にそのように思われている事実は真摯に受け止める」とした。

 僕は電通に約十五年在籍し、広告制作の現場で働いた経験を踏まえ、「電通ブラック企業ではない」という見方については首肯する。電通は若い働き手を低賃金で使い捨てにしてきたわけではない。むしろひと時代昔の社員なら「札束で横面を叩かれて働くんだ」と自嘲的に言ったものである。今でも上限までの残業代は支払われ、それを越えてしまった場合でも支払われてきた。それを偽って少なく申告させた事実は、おそらくは人件費の削減が目的というよりも、労基署の目を逃れるため、または上司が責任を問われないための、その場しのぎの誤魔化しであったと考えられる。

 

 ブラックどころか、自由放任が過ぎたのだ。

 他の企業は知らないから想像になるが、個人の裁量は大きい。但し、広告主企業の決定が絶対な業界であるため、それを裁量と呼べるのは企画提案段階までで、制作作業に関しては裁量などほとんどない。それでも自由はあった。徹底的に働く自由、ヒマな時はサボる自由。社内外含め、スタッフの力を借りられる自由。悪く言えば、人を使う自由。その使い方もあくまでも自由。

広告企画制作の仕事なら、大まかな手順はあるものの、毎回カスタムメイドであるため、「こうすればうまくできる」というシステムやレシピのようなものがあるわけではない。その度にしっちゃかめっちゃかな事態が起こり、めちゃくちゃに崩れたスケジュールとたたかいながら、ビクとも動かない納品日(たとえばオンエア日)になんとか合わせて着地させる。言うなれば、こんな感じの自由だ。

 その自由の中で、自由を濫用する人に当たると不幸が起きる。自殺してしまった女性社員を最悪の事例として、それ未満の例であれば大抵の社員は程度の差こそあれ経験はあるはずだ。

 

 電通の人は基本的には仕事が好きであるため、管理職である上司すらも現場を自由に飛び回って不在がちなことも多い。退職することなく何十年も在籍している人は、それだけでもこの仕事を愛している証左とも言えよう。本来は苦しくも楽しい仕事なのだ。

 そんな中、困ったことがあっても、相談相手であるべき上司を捕まえることすら難しい状況があるし、基本は自由なので手取り足取り助けてくれることの方が稀である。人間関係が冷たいのとはまた違う。自分のことに忙殺されていると、他者への気遣いができない場面や人格ができてしまう。そして自由に人を傷つける言葉を吐いてしまう。

 しかし、それは「いくら腹が減ったからといって、物を盗んで食べてはいけません」と同じ当たり前のことで、今回書類送検された元上司と、その予備軍たちを擁護はできない。

 石井社長が話した通り、電通の美点と今回の汚点は表裏一体であった。

 

 だから、今後は広告の仕事は担当の自由な差配に任せっぱなしにはできず、(将来的・究極的には人工頭脳にやらせることも含め)もっとシステマチックになるのか、管理職がその役職通り、厳密に管理しながらイチイチ社員の手綱を締めつつ進めるのか、なんにせよこれまでのような自由は諦めなくてはならないだろう。

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 僕個人は、電通になんの恨みもない。テレビに映る高橋まつりさんの顔と、並んだ社長、副社長、人事局長の苦渋に満ちた表情の向こうに見える、これからの電通の姿を想って、二重に哀しい思いがしたのであった。

 自由よ。これの使い方を誤った連中が、まつりさんと電通の自由を殺したのだ。

 

「不寛容という見えない敵に」

しんどい一ヶ月であった。

先月書いたコラム『広告業界という無法地帯へ』への反響として、メディア各社から取材が押し寄せた。新聞社二社、テレビ局四社、雑誌社二社、インターネット系二社など。ラジオ番組でも僕の知らないところで紹介されていたようだ。

一部、取材をお断りしたり、収録したけど放送されなかったものもあるのだが、なるべく受けようと努めた。

僕にとってはほとんど得にもならない。それどころか、この忙しい時期に時間をかなり消費することになる。謝礼をくれたのはわずかに一社だけだ。金額は知らない。勝手に口座に振り込んでおいてくれればいい。

しかし出会った人たちは皆、礼儀のある気持ちのよい人たちであったことは言い添えておきたい。

時間を割いた理由は、電通の社長なり上層部が出てきて堂々と話さない上、現役の社員たちには箝口令を敷いて、「フェイスブックに、楽しげにバーベキューしてる姿とかポストするな」とまで指示をするからである。これでは、「鬼十則が悪い」だの「富士登山研修のような体育会系体質」だの、あることないこと報道に言われっぱなしで、この業界の過重労働問題の本質を見誤るからだ。

特にテレビというのは、まだまだ影響力が強いのにもかかわらず、短い時間で一点突破する特集を組みがちなので、誘導的なものになりやすい。

 

僕は、あるテレビ番組のディレクターに、「いかに電通の業務がしんどかったか」ばかりを訊かれ、訝しんだ。

そこで、彼の目を見て問うてみた。

「僕は、電通の仕事の大変さだけを強調したくてあのコラムを書いたわけではありません。しかし、おたくは、広告主のことをテレビで言えるんですか?」

彼は驚くほど率直に答えた。

「言えません」

 

テレビというもののビジネスの構造上そうなのである。だって、雑誌や新聞と違い、本業の収益の一〇〇パーセントを広告に依存しているのだから。

「それを作ったのが電通だろう」という批判がすぐに飛んでくるだろう。

そうだ。だからみんな、どんな優れたドラマでも、スポーツ中継でも無料で観られるのだ。吉田秀雄はつくづく偉大であった。

あ、でも、NHKには視聴料を払いましょう。

 

他によく訊かれたのは、「どうしてあなたは電通を辞めたのですか?」。

理由はいくつかあるが、僕は会社が嫌で嫌で辞めたわけではない。不満のひとつやふたつはあったけど、恨みは何もない。

ただ、「やりたいことがあって、会社員をしながらできる術がなかった」としか言いようがない。

 僕は会社を辞めてから二週間後にカナダに飛び、ひと夏の間カウボーイとして牧場で働いていた。会社には一時休職制度があったから、可能ならそうしたい気持ちはないでもなかったが、そこには「社が認めた理由により云々」という一文があった。つまりそれはMBAを取得するために留学するとか、何か今後社業に貢献できる理由が求められたのだ。

 「カウボーイ? それが今後の仕事にどう活きるのですか?」

と総務のおっさんとか役員に問われたなら、いくら屁理屈をこねて難局を切り抜けてきたコピーライターとしても、

「えーと、あのー、そのー、なんて言うか……」

まったく何も思い浮かばない自信があった。

 

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しかし、三五才くらいで気付いていたのだ(明日、私は四一才になる)。

「オレもいつか死ぬ。もう人生の半分以上が終わってしまった」という否定し得ない事実に。

会社で能力を十全に発揮してきたかと言われれば、まったくそんなことはないのだが、電通での生活も十数年もやれば、一旦いいだろうと思えた。一度ありついた食い扶持に一生頼らなくてもいいではないか。

今はあれやこれや思うままにやりながら、およそ思い通りには事は運ばず、たまに途方に暮れたりしている。仕方ない。ダメなら僕の責任でしかない。

 

現代のビジネス社会というのは「失敗が許されない」仕組みになっている。成功するよりも、「失敗しない」ことが重要視されていて、組織で仕事をしていればそれなりの結果がそれなりに得られるようになっているように思う。二重三重に失敗しない防御線が張られていて、冒険は難しい。

その中でも本当に能力のある人は飛び抜けた成功例を作っていくのだけど、僕のような凡庸な人間は、失敗しない程度の仕事しか成し得なかった。

 もちろんそれが組織に守られているということだ。

僕は会社員時代に、「言った言わないのよくあるトラブル」に巻き込まれて、新入社員一人の年収分くらいの損失を会社に負わせてしまったことがある。僕はハラを切る覚悟をして、上司を呼び止めた。

 

「すみません。こういうわけで、これだけの損失を出してしまいました」

と報告する僕に、彼は即座に反応した。

「わざとか?」

僕は、普段温和な上司からの叱責の言葉と受け止め、一瞬当惑した。

「はい?」

「わざとか?」

彼は繰り返した。

「いいえ。わざとではありません」

「うん、ほな、ええわ」

彼はこれだけ言い残すと、どこか次の用事へと去っていった。

 守られていたのだ。前回書いた花岡先輩(仮名)や、この上司のような人たちに。

 少なくとも、僕が知っているかつての電通は、寛容な会社であった。

今、日本のあちこちで問題になっていて、電通の今回の件にも根っこで繋がっている問題に「不寛容さ」がある。

 

■カネを払うことへの不寛容

誰も彼もが、個人でも企業でも、「可能な限り極限まで、出すカネを少なくしたい」と思っている。しかし、それは自分が支払われるカネも極限まで少ないということも意味するだろう。

相手に正当な金額を払うことが、できるだけ払わないことよりも重要なことなのではないだろうか。そうすれば、払われた彼は欲しかったものを買うだろう。必要なもののひとつグレードの高いものを買うかもしれない。そういう人が増えていけばやがて、自社の製品も高いものを誰かが買ってくれるかもしれない。それが、経済が「回る」ということなのではないのか。

 

その正当な額をどのように評価・決定するのか。それは自分に基準があるか、ということでもある。たとえば、デザインや文章などの無形なもの。こういったものは安く考えれば「ただの絵やないか」「文字やないか」と無価値にも思えるかもしれない。日本人は無形なものへの敬意が足りないまま、工業製品(実体物)に重きを置いて、経済活動を推し進めてきたから。そして、原材料費を積み上げてモノの値段を決めてきたから。

 

僕は個人的には、物を買う時でも、物にカネを払うのではなく、人に払うような気でいる。「これを作った人」「売るための労力を割いた人」に対する対価として払う。

服なら服で「これ、誰がデザインしたんだろう。この機能、誰が考えたんだろう。このステッチ、手間かかってるなぁ」。こう考えると、自分なりの正当な価格を差し出すことへの心理的負担が軽減しやしないだろうか……。

 

■不便なことへの不寛容

どこもかしこも二十四時間営業でなくてもいいのではないか。世界の国々の夜はもっと暗いぞ。正月は静かでいいのではないか。すぐに届けられなくてもいいではないか。それ、今すぐ必要なのか。時間通り配達されなくても、そりゃ渋滞もあれば荷物が多い日もあるかもしれないではないか。

 確かに、日本の製品は便利にできていて、サービスは痒いところに手が届いている。素晴らしい国、国民だと思う。

ちょっとしたアイデアや工夫を生み出す努力は長所として残っていけばいいのだけど、「人数と気合さえあれば実現できるサービス」に驀進しすぎてはいまいか。

人口が減少していく中、もうその人数も、気合のある若い働き手もいないということに気付かなくてはいけない。

 人数と気合でやっているうちに、日本企業はアップル、アマゾン、スターバックス、イケアなど、独自の哲学と方法に知恵を絞ってきた外国企業に世界市場で主役の座を奪われてきた。彼らの価値の大きな部分は、無形なものにあるということも忘れてはいけないと思う。

 

前述の「自分の基準」はここでも適合できて、「他社がやっているから」とかはどうでもいい。「うちの会社はこうなんです」という独自性が評価されるといい。

「他社様のことは知りませんが、我が社の規模や方針、能力、そして従業員の幸福に照らし合わせると、そのサービスは現時点では不要と結論します」

株主って誰なのか。株主総会でしょーもない質問をしてくる人には、このように言ってくれよ、全国の立派な会社の社長。ちゃんとコミュニケーションすれば、捨てる神あれば拾う神もあるだろうに。

 

■他者のミスへの不寛容

僕にも、レストランで食べ物に髪の毛が入っていた経験はある。そんな時どうするかと言うと、「髪の毛を取り除いて食べる」。

いや、ラーメンにロレックスが入っていたら問題だよ。その時は店の人に言うかもしれない。あと、指とか。しかし、髪の毛はありえないことではないし、そないに汚いものでもない(個人差があります)。

普段もっとすごいところを喜々として、または義務としておクチに入れているくせに、文字通り「どの口が言うか」だ。

 電鉄会社のミスですらないのかもしれないが、電車が遅れる時など、常に遅刻をするワタシは、「やった! 遅刻の理由ができた」くらいに思っている。最近は電車に乗っていると、「電車が二分遅れております。お詫び申し上げます」と、やたら「二分」を強調した口調でアナウンスが入る。異常だよね。

 

■他人の成功や僥倖への不寛容

ここまで来ると、アタマの正常度合と心の健康具合を疑った方がいい。

嫉妬は、英語で言うと「shit」です。

 

何者でもない私が、エラソーに述べてしまったが、キレイゴトに基づいた夢想をしてみたまでだ。問題は根深く、複雑で、もはや空想するしか気分が晴れなくなってしまったのだ。

 僕自身は決して寛容な人間ではない。松竹梅があれば、大概「竹」を選んでしまう小さい男でもある。我が身はかわいい。ヒゲとか生えてるけど、めちゃくちゃかわいい。常にニコニコしているタイプの人間ではない。あのコラムの通り、体重差三倍の営業を、刺し殺したろかと本気で考えた酷い人間だ。いつも何かに怒っているようなしょーもないおっさんだ。うれしい時には素直にそれを表現できないくせに、クソ野郎にはクソ野郎なりの応対を直截にする。

 

ただ、僕も世の中を腐らせてきた責任の一端を担うのであろう人間として、あなたご自身はどうであったか、いっぺん問うてみてほしいと思った次第だ。

寛恕願う。