月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「荒くれ者の端くれとして」

■「ケヴィンという男」篇

十五年近く勤めた広告会社を辞めて、ひと夏の間、カナダにてカウボーイをして過ごすことにした。今、ふた月が経ったところだ。

ケヴィンという荒くれ者カウボーイ一家の牧場に滞在して、その両親であるハーブとイーディスという夫婦の家の地下室に寝泊まりさせてもらっている。

ケヴィンは四十五才。眼光鋭く、口元はこんもりと蓄えたヒゲで覆われている。頭頂部は逆に、潔いほどに毛に覆われていないのだが、男たちは屋外では必ず野球帽なりハットをかぶっている。無帽で表に出ることはまずない。背自体は僕と大差ない一七〇センチ半ば。だが、三角筋(肩)から広背筋が発達した大きな背中を少し丸めてノシノシと歩く姿は、実際よりもずっと大きく見える。

僕が彼を荒くれ者呼ばわりするのには、理由がある。怒りを全く包み隠さないのだ。そして、その時の吐く言葉がとにかく汚い。

「mother-fucking」「cock-sucking」という形容詞に対応できる、通常に流通した日本語は無い。「mother-fucking, cock-sucking bastard!」など、母親とヤるわ、チ○ポは咥えるわ、親なし子だわ、矛盾だらけだ。意味なんかないのだ。ただフラストレーションの発散として何事かを叫びたいから、吐くだけの言葉なのだ。

まぁとにかく、知り合って間もないというのに、こういう言葉を間近で大声で聞かされると、こっちはちょっと萎縮する。

普通、女性のいる前や、特に子供の面前では、男はこういう言葉を口にしないものなのだが、ケヴィンはお構いなしだ。牛や馬といった家畜に対しても、ケヴィンは無茶苦茶だ。僕は動物を本気で殴る人間を初めて見た。逆ムツゴロウさんだ。

ただ、一点断っておくと、馬に対してはライダーである人間がボスであることを教え込まなくてはいけない。何事も馬の意思ではなく、人間の指示する方向に進ませ、こちらの思い通りに動くように仕向ける必要があるのだ。

たとえばホルター(口紐)に繋いで馬を引く時にも、人間が先を歩き、馬に引かせてはいけない。あくまでも人間の行きたい方向に馬を従わせるのだ。

趣味で乗馬しているわけではなく、我々カウボーイはあくまで仕事として、最高の効率と安全を追求しつつ馬と共に作業にあたっているからだ。

それでも、ケヴィンのやり方は、僕の目には度を越えているように見えた。牛の群れを制御する時には、専用の弾力性のある棒を使うのだが、彼はそれがビュッと音がするくらい激しく振って、バチン! と背中を打ったり、お尻を突いたりする。家畜用でない、そこらの鉄棒をバットのように両手で振って、家畜の頭蓋骨がゴチン! と音を立てることすらあった(本当はもっとすごいことをしていたのだが、前号に引き続き、残酷描写のため詳述は避ける……)。

荒くれ者は、仕事に関しても、手取り足取りなんかは教えてくれない。ケヴィンは僕が「今日は何をするんですか?」、「それは何のためにするのですか?」と質問しても、早口でゴニョゴニョッと答えるので、よくわからないことも多い。そのくせ、友人と長電話をしては、汚い言葉を交えつつバカ話を延々と続け、「ギャハハハ!」とバカ笑いをする。だから、僕はこの人がやや苦手であった。

しかし、振り返ってみれば、彼が僕に向かって汚い言葉を吐いたことはない。それどころか、幾度もピンチの際に助けてもらった。

八月の暑い日のこと。僕は、ケヴィンの妻であるタミーと、トラクター二台を使って干し草巻きの作業をしていた。実は、夕方に僕の水筒の水が残り少なくなり、まだ作業は数時間続ける見込みであったため少々焦りを感じていた。牧場までは十数キロ離れているから、水は補給できない。そんな時、タミーのトラクターに付けたベイラー(草を巻く機械)が故障して、作業が中断した。僕は「まずいなぁ」と思いつつ、ケヴィンに電話をかけるタミーを見ていた。数十分後、ケヴィンがピックアップトラックで現れた。

すると、工具の他に、頼んだわけではないのに、缶ビールを数本持って来てくれているではないか。なんて気が利くんだ。こんな人だったっけ? と、僕は感謝しながら、それで喉を潤した。

それ以外にも、僕のベイラーに、落ちていた牛の頭蓋骨が挟まって詰まってしまった時。

僕が穀物を積載した十トントラックを畑でスタックさせてしまった時。

ケヴィンは文句も言わずにすぐさま助けに来てくれた。

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普段、機械が故障したり、動物が言うことを聞かないと、上記のFワードだかナニワードだかを叫んで当り散らすのだが、僕が何かをしくじっても「Oh well, oh well(まぁまぁまぁ……)」とだけつぶやいて救援してくれた。そして、僕が押しても引いてもどうにもできなかったトラブルを、時に汗みずくになりながら、時に手を油で汚しながら、毎度解決してくれた。

何か一緒に作業を終えて、体は埃だらけ、ブーツは泥や糞だらけになって汗を拭く。彼がショップ(機械修理をする作業所)の冷蔵庫から缶ビールを二本出してくる。それを喉に流し込む時ほど、充実感のある瞬間はない。半人前以下の僕でも、その日は何事かを成し遂げたような気分にさせてもらえる。

そうは見られたくはないのだが、僕はどうしたって「ホワイトカラーの仕事経験しかない非力な男」に過ぎない。残念ながら、自分で自分を顧みるとそう思う。二ヶ月いても、自分では何一つ完結できないのだ。

そんな役立たずだが、どこかからケヴィンの「mother-fu……, cock……%#@&Xπγ*!!!!」が聞こえてくると、僕に何か少しでも手伝えることがあるかどうか、歩み寄っていくのだ。

「どーでもいいこと、よくないこと」

■「ジェイクという男」篇

十五年近く勤めた広告会社を辞めて、ひと夏の間、カナダにてカウボーイをして過ごすことにした。今、ひと月経とうというところだ。

会社は大企業だったから、知人の中には「えぇーっ、もったいない」などと言う人もいたけれど、「おぉ、おめでとう。楽しみだな」と激励してもらえるのが一番うれしかった。

会社も広告業界も、もしかしたら日本社会すらも、僕にとっては複雑になりすぎて、ちょっと小休止であり、僕の人生にとっては大勝負といったところだ。別に、なにもかもに厭世的になってここに流れてきたわけではない。もちろん用心棒でもない。

カナダに来て、まずお世話になったのはジェイクというカウボーイだ。ジェイクといっても、彼は日本人だ。愛称で長い間そのように呼ばれている。ジェイクは十数年に渡って、ステュアートという老牧場主の下でカウボーイを生業としている。

「カウボーイとは何か」という説明は、僕も今それを自分なりの解釈で言葉にしたいと思っているところなので省きたいが、簡潔に述べるなら「牧畜業」でいいと思う。食肉用の牛を育てて売る。それが本業だ。そのために、穀物をはじめとした作物も栽培すれば、人間の手足となり働く馬や犬も世話しなくてはならないし、様々な機械も運転・操作しなくてはならない。

僕はジェイクのところで数日間手ほどきを受けてから、カナダ人の牧場に移るのだ。

牧場の朝は早い。ジェイクは七時には家を出る。クワッドと呼ばれる四輪バギーで牛たちの見回りをし、馬たちに餌をやる。その他、敷地を囲って牛たちの移動を制限するフェンスの修理、出産や治療といった牛の世話、牧草の管理、トラクターや各種機械のメンテ・修理などなど。毎日あれこれとある仕事のほとんどを、ジェイクひとりの手で行うことに驚かされる。

土日というものはないに等しい。一日家でゴロゴロという日は何かよほどの幸運か、大雨や雪で閉じ込められるなどの不幸が起こらない限り訪れない。それでも、夕方から遊びに行くとか、一緒に働いている牧場主の息子、ディーンに任せて数日間キャンプに出掛けるといった余暇はたまにある。

ジェイクの牧場にはミーと名付けられた寝たきりの牛がいた。尿管結石を伴う病気らしく、お腹に穴を開けられ、垂れ流しの状態でアリーナ(馬を調教する厩舎)の片隅で時折「オォォ~」と苦しげな声を上げていた。その日、僕たちは夕方からロデオを観に行こうかと話していた。ところが、いざ出ようとしていたところ、そのミーが横倒しになり動かなくなっているのを発見した。

ジェイクが確認するとすでに絶命していた。

急遽ロデオ観戦は中止して、ミーの死骸処理をすることになった。解体して、肉は冷凍し犬の餌にするという。ジェイクは「もしも気分が悪くなったりしたら、向こうにいていいから」と言う。僕は血が苦手なので内心ビビったが、押しかけカウボーイをしている以上、できることはやらなくてはいけない。顔は青ざめていたかもしれないけど、なんとか平静を装って彼の指示を待った。

ジェイクはまず牛の首にナイフを入れて血抜きを行なった。それから、ミーの亡骸の両足に鎖を結び付けてトラクターのバケット(ショベル部)にくくる。トラクターを操作して体重五〇〇キロ以上はあろう牛の体を逆さ吊りに持ち上げる。ミーの鼻から血液と体液が流れ出てそこに血溜りをつくる。足首からグルリと皮を切って、脹脛から真っ直ぐ下す。そうやって、皮下脂肪と肉の間に刃を入れて毛皮を剥いでいく(以下、残酷描写のため省略……)。

とにかく僕はナイフ片手に、ジェイクの仕事をできる範囲で手伝った。訪れて四日目のことだ。

翌日、ジェイクとクワッドに乗って牛の見回りに行くと、一頭の仔牛がうずくまっていた。ジェイクが後ろに回り込むと、お尻のあたりから肉が赤く露出していた。

「コヨーテに噛まれたんだ。肛門のあたりの柔らかいところを狙うんだ」 と、ジェイクが教えてくれた。 「こいつは助からないから、殺るしかない……」

ヤレヤレという顔をして彼が言う。ところが、牧場にライフルと弾丸を取りに帰ると、二十二口径の弾だけが見つからない。

「他のもっと大きな弾ではダメなんですか?」 と、素人の僕が尋ねると、 「それでは頭ごとブッ飛んでしまう」

牧場主のステュに報告に行くと、「それならナイフでやれ」と言う。ジェイクはさすがに嫌そうな表情をしていたが、「ボスの言うことだからさ……」とそれに従う。

僕は「写真を撮るので、離れたところにいていいですか」と断って、カメラを構えた。それを言い訳にして直視したくなかったというのが正直なところだ。

ジェイクがロープを投げて仔牛を捕え、身動きを封じるために縛りつける。他の牛たちが、一様に不安げな眼差しをこちらに向けている。その視線に抗議めいたものを感じなくもない。

ジェイクはナイフを手に仔牛の胴体を跨いだ(以下、残酷描写のため再び省略)。

僕は、自然と対峙し、命あるものを扱う厳しさを目の当たりにした。仔牛の生命が完全に消失するのをうな垂れて待つジェイクの後ろ姿に、僕はなんだか感情の昂ぶりを覚えて涙をこらえた。

「二日で二頭失うとはね」と、手を血だらけにしたジェイクは諦めの混じった笑みを見せた。

これが五日目の出来事だ。

こういうことが毎日のように起きる、と言っては語弊があるが、起きてもおかしくない状況にあることは確かだ。しかし、これらは「どうでもよくないこと」で、緊急の判断と対応を求められる。死肉は腐る前に処理しなくてはならない。襲われた仔牛は苦しみを長引かせるよりも殺処分してしまうべきだし、銃弾がなければ刃物を用いて手を汚しながら仕事をやり遂げなくてはならない。ビジネスとしては、コヨーテ被害は保険申請の対象だから損害を写真に収め死骸を持ち帰り、証拠を残さなくてはいけない。

翻って、広告会社時代のオレよ。なんと「どーでもいい」ことに右往左往させられてきたことか。いや、今でも働く仲間たちには申し訳ないが。いやいや、みんなもうとっくに気付いているだろう。ほとんどのサラリーマンの仕事など、どーでもいいことの集積だ。

ちゃんと手続きを経て制作して掲出済みのポスターに対し広告主の上役が「なんだこれは!」とお怒りだという情報を誰かが持ち込んでくる。僕ら制作チームは、渋々会議室で頭をつき合わせて代案をヒネリだし、デザイナーたちは徹夜してそれを提案用に描き出す。

いざ上役を呼び立てて、「こちらが『元々の』ポスターです。こういう意味が込められています」とプレゼンテーションすると、 「あっはっは。おもしろいじゃないか」 と、彼は聞いていたのとは全く違う反応を見せる。そりゃそうでしょうよ。我々プロが本気で作ったのだ。プロのギタリストに「ギターうまいですね」と言うか?

うちの営業が「次のはもう見せんでいい」と目で合図を送ってくる。結局、オオゴトどころか何事もなく、元々のポスターで一件落着する。一体なんの騒ぎだったのだ。徒労感とデザイナーたちへの申し訳ない気持ちで恥じ入る。そのポスターはのちに、広告コピーの賞を受けた。

おそらく上役は悪気もなく、「アレさぁ、誰が作ったんだい? ワタシはちゃんと見ていないが?」とでも言ったのだろう。小指の先みたいな些細な一言を、さも天地がひっくり返ったようなオオゴトになるまで拡大して、若いデザイナーたちの週末は、彼らの労働時間は、彼らの家族は……。こんなことの繰り返しだ。

またちょっと涙出てきた。

とはいえ、大きな意味ではどんなことも、もしかしたら僕ごときの人間が死ぬことですらも、どうでもいいことなのかもしれない。カウボーイにとって牛というのは財産であり商品だから、敷地から逃げられたりするのはオオゴトだ。ジェイクの友人のカウボーイは、逃亡した牛がなかなか見つからなかった時でも「まぁ、同じ地球上のどこかにいるさ」と笑ったという。

僕は、僕にとってはどうでもよくないことをしようと思うんだ。少なくともこの夏は。

「カッコつけろよ(続 ルールブック、読んだか?)」

およそ一年前のコラム、「ルールブック、読んだか?」の中で、僕は同僚のユウちゃん(仮名)という女性の、恋の話について書いたのだった。

その後、ユウちゃんとナオトくん(知らんけど)の恋の行方はどうなったのか。私は追跡調査を実施した。一年前のランチと同じメンバーであるユウちゃんと先輩を、同じ料理屋に呼び出した。

後輩の滝下(仮名)もなぜか同席していたような気がするが、揃って唐揚げ定食を注文する我々に対して、「カレーうどん定食には唐揚げも四つ付いてくる」と得意げに発言した以外は、まったく存在を消していたように思う。恋愛に関して口を挟む術が一切なかったのだ。

さて、あの時三〇才目前だったユウちゃんは、三十路となった。彼氏との最近の関係自体は煮え切らないというか、燃え上がらないというか、大きな変化もないまま続いているようだ。

それでも、先月は一緒に海外旅行に行っていた。彼氏の勤め先の旅行に「フィアンセ」として同行をしたらしい。いや、これはあくまでも僕の想像であって、彼氏が勤め先に対して、ユウちゃんをちゃんとフィアンセとして申請でもしたのかどうかは知る由もない。しかし、企業としては万が一の事故の場合などを考慮して、真っ当な関係の人にしか許可を出さないだろう。

うちの会社でそんなものがあったら北新地のおネエちゃんとか平気で連れてくる人も出てきかねない。

だから僕にはわかった。そうか、そういうことか。

彼氏はその、南方の温暖な気候と開放的な空気と燦燦たる太陽の助けを借りて、ユウちゃんにプロポーズをするつもりだったのだろう。 「そういうことやろ?」

僕はユウちゃんに尋ねた。

 

彼女は旅行の思い出をひと通り語ってくれた。そのハイライトはこうだった。

旅行中は会社の行事などで割りと忙しかったらしいのだが、一日だけ暇を見つけて、二人きりで海沿いをドライブに出かけたという。その帰路では、目を奪われるような美しいビーチがあった。

彼氏が「ちょっと止まろう」というので、車から降り、ひと気のないビーチを歩いたのだ。時刻はちょうどサンセットの頃。波の音だけが聞こえる。砂浜のせいか、眩暈のするような美しい情景のせいなのか、ユウちゃんは足元がフワフワする感覚を覚えた(オレの想像)。

「しばらく休んでいっていい?」 彼氏はそう言って、腰を降ろせる手近な場所を探して歩を進めた。その後ろ姿を眺めて、ユウちゃんは小さな予感を感じた。その胸は、幸福感で締めつけられる準備すら始めていた(これも想像)。

二人は並んで砂浜のベンチに座り、しばらく二人だけのための静寂を共有した。

ユウちゃんは沈黙に耐えた。ナオトが口火を切るのを待ったのだ。

何ヶ月か前に、デート中の車内で沈黙が降りてきた時に、ユウちゃんはそれまでの会話と脈絡のない話を振って、沈黙を払いのけたことがあったという。しかし、あとで考えると、「あ、ナオトくんは何か言いたいことがあったのかもしれない……」と、少しだけ自己嫌悪を感じたのだ。

だから、その時の彼女は沈黙を怖れることなく受け容れた。

夕空が、その色彩をワントーン落とした。波は、世界でなにが起きようと一切の関心の示さずに筆を行ったり来たりさせる画家のように、自分の仕事を続けた。

  「それが、本当に休憩しただけだったんですよ!」

僕はユウちゃんの声で、我に返った。

唐揚げが多い。割りとお腹一杯になってきた。

ユウちゃんは目を見開いた。 「なんにもなかったんですよ!」 一同で爆笑した。

僕は心の奥底では「なにもないいうんは、手も繋がない平和な状態をいうのであって、ベッドの上でのチチクリ小競り合いや、盧溝橋事件の如く突発的な衝突を契機とした肉弾戦はあったくせに」と思ったが黙っていた。

彼氏は、彼女を海外にまで連れ出しておいて、帰国した現在に至るまで、ユウちゃんに正式なプロポーズをしていないのだ。すでにお互いの両親にまで会っているのにもかかわらずだ。

そこから僕と先輩は愚にもつかない方策をあれこれ話し合ったり、提案したりした。ノーアイデアの滝下は黙々と食べていた。

まぁ、結婚なんて無理矢理しても仕方ないものだからね。

しかし、最低でも、ルールブックには書いてある。 「堂々と旅行に行っていいのは、婚約者・許婚だけだ」

僕のことも少し書くと(以前にも書いたけど)、若い頃に付き合っていた女性から、「え? 私、結婚するつもりのない人と付き合うことはないよ」と言われて、軽くショックを受けた。自分の無自覚を恥じたものだ。当時、僕は二〇代半ば。そんなことは全然考えていなかったのだ。

結局、結婚することはなかったそのコのことを思うと、人生を無駄に遣わせてしまったようで申し訳ない。……いや、フラれたのはオレの方だった。申し訳なくない。

ルールブックの記述を読み違えてはいけない。だからといって「旅行に行ったら結婚しなくてはいけない」という解釈は拡大がすぎるだろう。

そんな意味のことを僕は言ったか言わなかったか、ユウちゃんはこうも述べた。

僕は不覚にも、その言葉に少なからず感動してしまったのだ。 「自分の年齢を考えて結婚したいとかじゃないんです。『彼と』結婚したいんです。彼の爪のかたちですらかわいいと思ってるんです」

あのなぁ、ユウちゃんは本当にかわいい女性なんだよ。オレみたいな流れ者の用心棒にはもったいない女なんだ。いや、オレ関係なかったわ。

あのなぁ、そんなユウちゃんに、流れ者の用心棒にまでこんなことを言わせる君はどうなんだい、ナオトよ。

あのなぁ、会うたこともないナオトよ。もしも、ユウちゃんは結婚相手としてはなんか違うと思っているなら、それは仕方ない。その場合でも、わざわざ女性を傷つけるような言葉を置いて去ることはない。

「どんな女性にも、彼女の幸せを願う六人の人たちがいる」と聞いたことがある。両親と、母方の祖父母、父方の祖父母だ。確か、その趣旨は「だから女性を悲しませることは七人の人間を悲しませることだ。どうしてもするなら、それくらいの覚悟でしろ」ということだったか。

ユウちゃんが愛想を尽かして去るまでダラダラと付き合いを続けるのもひとつの手だろう。

しかし、そうでないなら。カッコつけろよ。カッコつけるというのは、自分のためにすることではなく、彼女のためになにかをすることだ。

なにか柄にもないことをするとするだろ。 「一体、どうしたの?」と、相手が狼狽することもあるだろう。思ったほど喜んでくれなくてさ。

そんな時便利だから、コレ遣えよな。 「うん。カッコつけさせてよ」

オレは流れ者の用心棒だから、古いカントリーソングの一節を残して、そろそろ馬に乗って次の町に行くわ。

"If Tomorrow Never Comes" by Garth Brooks https://youtu.be/z6le1AlPaU4

〈もしも明日が来なかったら 彼女は僕がどれだけ愛していたかわかってくれるのだろうか 僕はあらゆる手を尽くしただろうか 彼女に毎日 君だけなんだって伝えることに〉

でも最後に、本当に余計なんだけど、それでも知っておいて損はないウンチクを垂れておくと、ガース・ブルックス本人は、このPVに出演もしている奥様のサンディとはのちに離婚して、女性歌手のトリシャ・イヤーウッドと再婚してるからな。

そんなこともあるからな。

「ラブホテル村に行きたくはないのか」

以下は、信じられないような実話である。

僕の取引先に〇村さん(あえて伏せます)という方がいる。その方からのメールを携帯電話で確認すると、必ずお名前が[ラブホテル]村と表示されるのだ。その〇に入る漢字はちょっと珍しいのだが、文字化けというか、変換というのか、その原因は僕にはわからない。

急いでいる時は携帯から返信を打つこともある。その際、ふと疑念がよぎる。
僕の携帯に[ラブホテル]村と表示されてるということは、ここから送った返信は、変換されたままの文面で届いてるのではないかとヒヤヒヤするのだ。

「[ラブホテル]村様 いつも大変お世話になっております。お問合せの件ですが……」

「誰がラブホテル村様やねん! なめとんのか!」と。

 LoveHotel
しかも、そのメールにはccで関係者が多いから、〇村さんの勤め先でのあだ名が「ラブホテル村」になりはしないかと心配すらしてしまうのだ。 「ラブホテル村」はさすがに長いので、「ラブホ村」になって、最後はなぜか女性職員にまで「ラブちゃん」とか呼ばれるようになる。片岡愛之助か。

ちなみに私の先輩には「なんでも下ネタで喩えるムラタさん(仮名)」というのがいて、電話すると、

「もしもし? もしもしピエロ?」 と出てくる。
  • http://www.piero.co.jp/
  • 関西の人にしかわからんからまぁいいや。ラブホテル村に戻ろう。

    懸念を抱いた僕は、同じ仕事に携わる後輩の河口くん(仮名)にメールを送り、事情を説明の上、尋ねてみたのだ。

    「君のPCでは[ラブホテル]村になってるか?」
    僕は河口くんにこういう模範解答を期待した。
    「ははは、めっちゃおもろいですね、[ラブホテル]村! いえ、僕の方ではちゃんと表示されています。が、いっぺん見たいものです」

    しかし、彼からの返信はこうだった。

    「下記ご連絡頂いた件、 私のメールボックスの受信メールを確認しますと、きちんと表示されています。 以上、ご報告まで」

    マジメか! ふざけんな! いやどっちやねん。 なにが「下記ご連絡いただいた件」じゃ。ラブホテル村の話やないか。こっちの方が字数少ないわ。 なにが「ご報告まで」じゃ。無表情か、お前は。ラブホテル村にいっぺん行ってみたくはないのか。

    人それぞれ社風とか暗黙の了解があって、文体も制限があるのかもしれないけど、僕が勤める会社にはそんなものはなく、個人の裁量・技量である。 技量というのは、僕の仕事はもはや、メールの往復で交渉したり、依頼したり、問題解決する機会も多いので、そこには技量と呼べるような個人差が表れるのである。 未だに「小生」とか書いてくる人もいるしな。あなたの人生が大きいか小さいか、知らんちゅうのに。

    それにしても、Eメールというのはここ二十年で急速に普及したから、実に様々な個人差がある。

    ■堅苦しくて読みにくい人:

    こういう人に限って、改行や一行空けがないから、読みだすのにすでにちょっと気合いがいる。丁寧なフリして、まったく読み手のことに配慮されていない文面である。だから大概、慇懃無礼な物言いになりがちだ。

    ■一行メールの人:

    「あの資料ある?」 などと、宛名もなく、一行で指図してくる、おっさんに多いタイプだ。これが最低。
    「どの資料ですか?」
    「プリントでお渡しすればいいですか?」
    「明日なら送れますけどいいですか?」
    など、結局こちらから問い合わせてメールを何往復もさせなくてはいけないから、余計に時間も労力もかかるのだ。

    なんの挨拶も説明もなく、転送メール送りつけてくるのもこの一派だ。

    ■文法・語法が間違っている人:

    「各位様」
    「〇〇部長様」
    (目上の人に対して)「了解です」
    (わしゃなんにも受け取ったわけではない、ただの連絡メールなのに)「ご査収ください」
    などなど、一見慇懃なつもりで、実際はあまり何も考えていないことがバレちゃうタイプ。

    良いか悪いか知らないが、僕は個人的にあえてやっていることがいくつかある。

    ■(所々に)余計な話や冗談を入れる

    「この前おっしゃってた本読みました/映画観ました/場所に行ってみました。〇〇と感じました」とか
    「では、よい週末を」とか。
    週末も深夜もなく働くことが善いことでも正しいことでもなく、休むことに罪悪感を持つ必要もありませんからね。
    「なんとかなるんちゃいますか」、「そ、そりゃちょいとキツイかも……」など、わざと砕けた口語・方言を用いるのも、これに近い。たまに、こうやって本音を紛れ込ませることで人との距離を縮められることがある。

    僕の上司なんかは、お得意先へのメールで、なにか延々とご説明さしあげた最後に

    「知らんけど」
    と書いていて、かなりの高等技術であった。

    ■しばらく前に受け取ったメールに返信する時は、ちゃんと下に元のメールが付いているものに打つ。

    これ、たまにしない人が多いので困るのだ。以前のリファレンスがないと話が食い違ったり、わざわざ元を探して読み返すハメになってしまう。

    ■箇条書きを多用する。

    時間・場所・条件などの他に、論旨にも箇条書きを積極的に遣う。

    ■してもらったことに対し、まずお礼を言う。

    外国人からのメールなんかよく、「Thank you for...」で始められているのを見るから、それを取り入れてみたまでなんだけど。

    他の仕事は知らないけど、僕の仕事は本当にメールの山を捌くことから始まることが多いので、これが仕事のクオリティの一部のような感慨もある。

    まぁ、一番意識的にやるのは最初に挙げた「余計な話を入れる」ことかな……。

    個人的な考え方なんだけど、僕は仕事もプライベートも態度を変えずに生きるのが正しいと考えている。正確に言うと、「そのように生きられることが望ましい」。日常生活の中で演じなくてはいけない役割や、期待される応対はそりゃ様々あるけど、なるべくその幅を小さくするのが人間的な心を保つ秘訣なのではないか。ちょっとアメリカ人みたいで申し訳ないけど。

    願わくば、エライ人にも、年下の人にも同じような態度で臨みたいと思っている。これを続けると、目上の人からは生意気な鼻持ちならない人間だと誤解もされるけど、取引先の前でだけニコニコしてる人や、相手によって態度を変える人をどうにも信用できないのだ。

    だったら、無愛想な人の方がむしろマシ。常に無愛想だったら、逆に安心するもんな。その人を笑わせることができたりしたら、ちょっといいことした気分にすらなるからな。

    みんな、酒飲んだらアホ話、エロ話、マジ話するでしょう。いや、たとえ飲まなくても。 わかってまっせ。

    仕事場でものすごい有能な感じでプレゼンしてた人を、後日電車で見かけた時に、スマホで必死にゲームしてたら軽くショック受けるでしょ。 そういうことです。みんな人間なんです。フツウにいこうや。

    後輩の河口(仮名)よ、楽しい人生を生きろよ。

    「シンドいのお前のせいやないか」
    と、タメ口で返されそうや。

    心に火を。尻にも火を

    広告企画制作の仕事をしていると、初対面の人などにこのように言われることがある。

    「クリエイターって、ゼロから何かを生み出すんだから大変な仕事ですね」

    僕は毎度こう答える。

    「ゼロからじゃないですよ。商品があって、クライアントの指示があるんだから」

    実際はゼロどころか、制約と条件だらけの世界だ。 大変な仕事であることは認めるが、クリエイターだなんて呼ばれるほどのものではない。

    クリエイターを英語で「The Creator」と表記すれば、それは創造主、つまりユダヤ教キリスト教において七日間で天地を創造したとされるヤハウェのことである。 だから、僕は自分をクリエイターだなんておこがましいことを言える人間を信用できない。

    クリエイターと言える人間は、子供を産む女性だけではないだろうか。だって、人間をクリエイトできるのだから。人から人が出てくるなんて、我々男からすれば想像もできないクリエイションなのである。

    そのクリエイターが減って久しいことはよく知られている。少子化である。 それに関しては、子を持たない僕自身も責任を感じないではない。 しかし、自分を含めた多くの共働き夫婦の生活を顧みると、そりゃそうだろという諦念も感じざるを得ないのだ。

    散々働いて、「今晩はゴハンいらない」で、外で飲み食いして夜十時とか十一時に帰宅する。

    とりあえずテレビニュースをつける。 お風呂沸かすと十二時。明日も七時起き お互いこうだったらそりゃね、セックスなんてする元気も時間もないわけですよ。

    僕の先輩に仲尾さん(仮名)というヤンキーみたいな先輩がいる。この人はとにかく、チームを遅くまで仕事させることで知られ、ご自身も夜昼関係なく猛烈に企画をすることで数々の実績を築いてきている。

    それなのに、男の子が三人もいる。奥様はハーフかと思えるような美人だ。にもかかわらず、子供は何人生まれても仲尾さんそっくりで、奥様の要素はどこにあるのかわからない。だから僕は、仲尾さんが自分でピッコロみたいに口からヒリ出していて、奥様はその傍らで応援しているだけなのではないかと疑っているくらいだ。どういう強い遺伝子をしてるのだ。

    このくらいの何かを残し、遺すというDNAへの強いプログラミングがないと、仕事も子供もできないのかもしれない、と何事にも執着の少ない僕なんかは仲尾さんを見ていて思うのだ。

    奇しくも週刊新潮四月三〇日号で「『人口激減社会』の利点検証」という特集記事があった。

    我が国では、少子化による人口減少に加え、出生率が全国最低の一・一三である東京への一極集中が加速していて、消滅可能性都市が地方のあちこちに生まれているという。

    しかし、記事は: ・産業構造の転換により、経済規模が変わらないまま人口が減れば、各人はより豊かな生活が送れるようになる。 ・空き家が増える問題の反面、家を二つ持つことも夢ではなくなるかもしれない。 ・悪名高い日本の満員電車から解放される。 ・人手不足になることで、終身雇用や年功序列に代表される、人を大切にする日本型経営を取り戻せる。 といったような利点を指摘している。

    いくつかは首肯できる点があると思ったが、イマイチおもしろくねえな、と僕は雑誌を閉じた。 騙されてはいけない。少子化は問題ではない。

    僕は率直に言うと、少子化なんて人口の適正化としか思っていない。それとセットになる高齢化の方がよほど深刻なんだけど、深刻なのは「今、生きている世代にとって大変」、というだけで、我々団塊ジュニアあたりの世代までが死に絶えたあとの若い世代は、もっと幸せになれると希望を持っていいよ。

    まず、余計な仕事をしなくて済むだろう。人が少ないから、アレコレ言ってくる外野が減る。製造業で言うなら、製品に無駄な機能をくっ付けるのをやめられる。

    多すぎる全員に何がしかの仕事をさせなくてはいけないから、「至れり尽くせりのつもりの余計なお世話」の機能がいっぱい付けられて、あーだこーだ口を挟んでくるエライ人の意見も取り入れなくてはいけなくて、その分費用が価格に乗せられて高くなっているのが現在の日本の状況だ。

    電化製品一般は、それで世界で勝てなくなっているのではないのか。先日ツイッターで、某カメラメイカーの製品パッケージを開けたら、分厚い説明書やらディスクやら、そのインストールの手順書やら、なんたら登録の方法とか、余計な紙モノや付属品がワラワラ出てきて幻滅した旨の投稿を見た。「ワクワク感が一気になくなった。だから、箱やその中身まで美しいアップルに勝てないんだよ!」と、その人は嘆いていた。 便利にしていくのはいい。しかし、どこかで「いや、それはいらん」と、本質でないものはストップさせないと。自動車が全自動運転に近付けば近付くほど、買いたい人いなくなるよ(作ってるのはグーグルかもしれないけど、それは措いて……)。

    今ですら、雨が降れば自動でワイパーが動き出し、暗くなれば勝手にライトが点灯するらしいではないか。いるか、それ?

    運転しているのはヒトなわけで、速度や進行方向はもちろん、天候やら路面状況やらの条件を見つつ、自分でコントロールするところに運転の楽しさがあるのではないのだろうか。ということは、自動車って自動ではなかったのだね。自ら動かす車か。なんかしんどそうやな。

    生きている人生がコントロールができないことばかりだからこそ、自分の操縦によって人間以上の力を享受することができるのがクルマの魅力ではないのか。判断すべき要素と遣う体の部位が多いから、モーターサイクルはより楽しいのではないのだろうか。

    ああ、オレは古い人間さ。

    結局、傑作は個人からしか生まれないのだ。桑田佳祐の才能の五分の一ずつを持った人が五人集まってもサザンオールスターズは生まれないのだ。強い個人と、それを支えるメンバー。

    山田洋二監督は、寅さんという傑作キャラクターを、原案・脚本・監督を担当して、一人で作った。それでも、脚本は常に他の誰かとの共同執筆でクレジットされている。個人の力と、巧みな補助。

    こういうことだ。

    人が少ないなら少ないで、個人の裁量を大きくして、物事の決定を早くして、重要な部分にお金と時間とサポートを充てる。

    結果、ソリッドでいて目の行き届いた良品を作っていく。ジャパンの生き残る道はこれだと、僕は思っている。 そして、これこそが効率化である。

    日本の産業界は他の先進各国に比べて、その生産率や効率が悪いと指摘されている。そりゃそうだよ、人が多すぎるんだから。 それをもってして、世の大企業の中では効率化の名のもとに、総務系部署の肥大化が進んでいて、「効率を上げる目的で、それを測定・精査するための不必要な作業」が増え続けている。それで現場が余計に仕事が増えて苦しんでいるという、本末転倒が起きている。

    本当はそういうことじゃないでしょう。

    若い人が「死ね、クソ」と思っているおっさん世代は実際にじきに死ぬから。だから、あとの世代は、働くの、もっと楽しいよ。せめて自分たちがゆくゆくそういうおっさんにならないように気を引き締めて生きていこうではないか。

    さっき、全自動運転の自動車は誰も買いたがらない、という話をしたが、男性の所謂草食化・絶食化だって、エロスがインターネットでいつでもタダで見られるようになったのと軌を一にするだろう。止められはしないけど、便利すぎるのはダメなのだ。疑似体験はできても本物じゃない。

    人が多すぎて、オンナなんかいくらでもいるから、「家帰って、Xvideos観ればいいや」と思っているのかもしれないが、これがもっと少なくなってみなさい。極端なこというと、日本人が三十八人くらいになってみなさいさ。ひとクラス分ですわ。

    そうなれば、DNAが勝手に種の保存に対して危機感を持って、何か緊急事態宣言的なものを発動させるかもしれない。

    「このオンナは、他の誰でもない、オレが抱かなくてはいけない!」

    「このコだ。このコなんだ! このコでなければ一生愛なんていらない!」

    「このヒトにはオレしかいないんだ!(残り男子たった十七人だけどっ)」 というある種の集団催眠のような狂奔。殺し合ってでもクラスのマドンナちゃんを抱くと思うけどね。マドンナちゃんでなくてもそれなりに抱いちゃうと思うけどね。

    これくらいの切実感に溢れた勘違いをしないと恋愛もセックスもできませんからね。僕なんかそれくらいの切実感持ってたけど、大した恋愛もセックスもしてきてないからな。ナメんなよ。

    そうでもしないと、仲尾さん(仮名)みたいなただでさえ遺伝子まで筋肉でできているような人にみんな持って行かれてしまいますから(※仲尾さんはあちこちでそっくりな子供を作っているわけではありません)。

    まぁ、これから産業転換の過渡期に入って、もう少し「ジャパン大丈夫か?」という危機感が共有されれば、なおさら日本が自滅することはないのではないかなぁ。

    江戸期にも飢饉による人口減によって、農業の改善に拍車がかかって効率が上がり、余暇ができたことにより、むしろ文化が発展したというし。

    締切のある仕事をしてきた「似非クリエイター」、月末にならないとこれを書かない「自称コラムニスト」として、僕にはそこのあたりはよーくわかります。

    「ヒジがね、当たってますねん」

    二年半ぶりのタイ王国アジア太平洋地域の広告祭に参加するためだったのだが、費用は自腹で行ってきた。今回は若いデザイナー二名が同行した。二人ともアジアの外国は初めてで、うち一人は三十才にして初海外。それどころか初飛行機だったらしい。

    三十まで一体なにを楽しみに生きてきたのかと、僕なんかは思ってしまうのだが、まぁ今回こういう機会があって、おそらく独りでは行かなかったであろう彼に外国の空気を吸ってもらうことができてよかった。 まぁほとんどドブみたいなニオイだったけどな。

    三月の日本から着いたスワンナプーム空港の夜は、一歩外に出るともの凄い湿気だ。上着を脱いで、とにかくタクシーを探す。広告祭の会場はパタヤのリゾートホテルなので、バンコクから二時間ほど走らなくてはならない。 「パッタヤ~」と、それとなくタイっぽい感じの緩~いイントネーションで目的地伝えると、運転手のおっちゃんは猛スピードで高速道路を飛ばす飛ばす。ふと横顔を見ると、牛乳瓶の底どころではない、占いの水晶玉をスライスしたような、見たこともない凸レンズをハメ込んだメガネをしていて、乗員全ては不安になった。 一直線に目的地に向かっているように見えたが、結局何度ホテル名を言っても、地図を見せても道を知らず、途中でパタヤ観光局に電話をし始め、携帯電話を受け取った僕がまたホテル名を伝え、係の人が運転手に道順を教えるという面倒な手続きをして二時間半かかった。あの猛スピードは一体なんだったのだ。

    あとで知ったことだが、タイの運転手に地図を見せてもムダなのだそうだ。地図の見方なんか教育されていないから余計混乱するだけなのだそうだ。そういう常識からして全然違うのだ。 そして、記憶だけでとにかく知ってる道を行こうとするから、都市の昼間の幹線道路はやたらと渋滞する。

    譲り合わないために渋滞が余計に酷くなる現象などは、タイ、インドネシアベトナムなど東南アジアに共通だ。

    広告祭自体はとてもいい体験だった。世界中の広告アイデアを一望できるし、メシは三食食べられるし(参加料約十万円するんだけど)、二年前の冬(日本で言うところの冬という時期)を過ごしたインドネシア時代の同僚に会えたし、パーティー会場では日本でお世話になっている会社社長にも遭遇した。 パーティーのあと、同宿の三人で連れだって少しパタヤの街を歩いてみたのだけど、地獄だったな……。ありゃ地獄やで。ゴーゴーバーとマッサージパーラーが深夜でもギラギラしていて、女たちやオカマたちが袖を掴んでくる。ケバケバしいネオンと、毒々しい化粧と、不潔な路地から漂うドブのニオイと、ボトルを傾ける、世を捨てたリタイヤ白人の虚ろな眼。「ちょっと一杯飲んでいくかー」という気分には到底ならないんだな。

    それでも、微笑みの国タイの人々はやさしい。日中であれば、手を合わせてお辞儀する挨拶や、柔らかい物腰で発する独特のイントネーションにこちらも自然に笑みを返せる。文字通り清濁併せ呑む寛濶さというか放埓さに思い浮かぶ言葉が「やさしさ」なのだ。それが世界中から旅行者を惹きつけるのだろう。

    また、そこが日本人と特にウマが合う理由なような気がしないでもない。 政治デモでの衝突やクーデターという手段の激しさでもわかるように、普段穏やかな人が怒ると怖いのだが、それは日本国も同様で、アジアにおいて、欧米の植民地にされなかった国は、タイとジャパンだけだ。まぁ、敗けはしたけどよ。

    僕はまだタイを深くは知らないので、ステレオタイプを通した目で見ていることは承知している。がしかし、「すべてのステレオタイプは真実である」という言説がある。 悔しいかな、そうなのである。 人はポジティブなステレオタイプには首肯して、ネガティブなものには口角泡を飛ばして「偏見だ!」などと抗議しがちなのだが、いやいや、ステレオタイプというのは経験の積み重ねから形成されているため、ほぼ真実なのだ。

    余談だが、もうひとつ付け加えると、「外国語がどのように聞こえるかが、その文化自体をどう受け止めているか」を表す。米語(英語)を話す人を聞いて「カッコいいー」と思うのは、アメリカ文化をカッコいいと知覚していることで、〇〇語を聞いて「声がデカくて鬱陶しい」と感じるのは、その国をそのように感じているわけだ。 はい、好むと好まざるにかかわらず、〇〇には何が入るか、みんなわかったでしょう?

    だから、我々は、勤勉で猫背ですぐに名刺を出して、シャイなくせにスケベで、争いごとをとことん回避しがちな割に小金は持っていて、世界トップの技術があって、腹立つほど細かい人間、であっていいのだ。心もアレもそない大きくないが、口とアレはメチャ固い。 これは性(さが)だから直るものでもない。

    チ◯コ界のコントレックスでいこうではないか。 https://www.contrex.co.jp/docs/what/index2.html

    ちなみに、インド人のステレオタイプも色々あるのだろうけど、習性として、「人との距離が異様に近い」と聞いたことがある。物理的な距離だ。話し相手にとても近付いて喋るらしい。

    だから、インド人と話すと、外国人はその距離感が快適でなく、一歩下がる。すると、インド人はまた一歩踏み出す。それを繰り返して最後はコーナーに追い詰められてしまうのだ。

    十数億人にそれをされ、周辺国の人々が下がりに下がった歴史の帰結として、出来上がったのがヒマラヤ山脈だと言われているとかいないとか。

    タイからの帰りの飛行機で、搭乗券をもぎられたあと、通路に並んでいたら、僕の肘に背後のおっさんの出っ腹が当たっている。 「おいおい、えらい近いなぁ」と思って振り向いたらインド人だった。 席に着くと、隣りがそのデブのおっさんの連れのこれまたインド人だった。平気で肘掛を両方使って、僕のテリトリーまで腕が入っている。それどころか、僕の腕におっさんの肘がまた触れているのだ。先方はそれでも全く平気なのだ。

    よほど「あのね、触れられるのは不快なんですけど」と言おうと思ったけど、先述のステレオタイプを思い出して納得した。というか、寛恕してしんぜる気分になった。諍いを好まない日本人だからね。

    通路の向こうの方で、チャイナ人二名はやや迷惑そうな他人の白人を挟んで、ワーワー話していた。

    「名前を付けよう」

    景気が緩やかに回復していると言われているけど、テレビや新聞が「アベノミクスの効果を感じるか」などと街頭調査をすると「感じない」が大半を占めたりする。それをメディアはうれしそうに報じる。「恩恵は富裕層だけ」とか「大企業だけ」とか、批判する声もある。

    僕はマクロ経済に明るいわけではないので、アベノミクスの功罪を論じる資格はないのだけど、ひとつ言えることは、「恩恵を感じる術を持っていなければ、感じるものも感じられない」ということだ。
    僕を含めて一般生活者の収入は主に労働からの給与と投資からなる。中には「あとギャンブルもある」という人もいるんだろうけど、これは景気に無関係だから措く。
    少し考えればわかる通り、景気が上向いたくらいで給料が急に上がるはずはないのだ。企業経営は、今月の売上がよかったからって来月からの給料が上がるような仕組みではないはずなのだ。
    一方、投資に関しては低迷していた株価の回復などによって、恩恵は感じられやすい。期待値がすぐに反映されるからだ。銀行預金の利子もゼロな中で、給与を預金するだけですぐに恩恵に浴せるわけはないのだ。すると、「投資なんかできるのは富裕層だけ」と言われるのだろうが、ミニ株(売買単位の十分の一の価格で取引できる制度のこと)だってあるし、NISA(運用益や配当に一定額免税になる制度)だって始まったし、決して富裕層にしかできないことではないのである。
    カネのことを言うなら、カネのことを学ばなくてはいけない。
    僕個人で言えば、そりゃ投資額がちょぼちょぼだから、何千万も資産価値が増えたりはしていないけど、小遣い程度の金額なら確かに恩恵を受けていると言える。
    二〇一五年一月現在では円安だし、「海外旅行に格安で行ける」などのメリットはないので、生活者としての恩恵はそれくらいなのかもしれない。
    だけど、景気は「気」だから、いついかなる時も僻み根性と被害者意識の人間には、豊かな時代など訪れはしないだろう。「経済効果は全く感じない」と言う人に、次にこう訊いてみてほしいものだ。
    • 「では、どうなれば経済施策の恩恵を感じますか?」と。
    • 「バブルの再来」とか「政府が一千万円振り込んでくれる」をはじめとした、およそ現実的ではない酒池肉林が述べられることは想像に難くない。心配せずとも、バブルはもうジャパンには来ないから。
    フロスティEVという、電動バイクが発売されたそうだ。作っているのは熊本県ベンチャー企業なのだろうか、株式会社吉角というらしい。充電だけで走るから排ガスが一切出ない。価格は三六八〇〇〇円。
    この情報にフェイスブックで触れたところ、コメント欄には、「高い」、「価格が……」、「十万円なら」との声が連なっていた。
    えぇーっ、高いかな。ウェブサイトによると、一回の充電が約四円で、六〇キロ走れる。月に二〇回充電しても月に一〇〇円以下。日本製で、車体は一年保証とのこと。
    僕のように週末しか乗らない人なら、月に一二〇〇キロも乗れませんからね。というか、年にだって乗らないくらいだ。タンク満タンに入れたら千円は越える。
    ちょっと計算すれば、ガソリン車のバイクに比べたら断然安いし、熊本の社長の心意気にその値段で一役買えるんだよ。わざわざ社長の見てるフェイスブックに書き込みをしなくてはいけないくらい高いはずはない。
    まぁ、その社長は社長で、フェイスブックのトップに「熊本で年収一億稼ぐ」ってわざわざ書くこともないし、どっちかと言えば、応援する気を削ぐ一言だと思うんだけど、溢れる気合いが漏れ出ちゃった愛嬌としよう。地方にありながらこういう挑戦をする人がいるというのは、僕自身も地方に住む一人として励みである。
    二〇〇八年のリーマンショック以降の新聞紙面の暗かったこと、暗かったこと。「〇〇社が今期下方修正」、「再び下方修正」、「××社が人員整理」、「△△社が会社再生法適用へ」などなど。僕はあの先行きの見えない抑鬱的な見出しが並ぶ毎日を忘れてはいない。
    あれに比べれば、こんな、景気などという自分でどうしようもないものが「なんかええ感じらしいで」と耳にできるだけでも恩恵だと思える。
    みんなで取り組んで、景気を良くする手がひとつある。「値引きしないこと」だ。値引きを売り手に強要しないし、値引きに簡単に応じない。
    クールジャパン機構の太田信之社長が著書の中で〈すぐに電卓を叩くクセをやめる〉ことを説いている。ファッションブランドでも、機械部品メーカーでも、世界にモノを売ってきた日本人は、つまるところ人がいいから、「値を下げろ」という要求にすぐに応じてきた。すると、何が起こるか。結局、海外で売られる製品の価格は下がらず、売り主が儲けて、作り手である日本人が儲けてこなかったという。
    もちろん業界によって、事はそう単純でもないんだろうけど、ある意味での真理を突いていると思う。だって、値引きしてきたから、働けども働けども暮らし楽にならないのだから。日本人はどの国の人よりも働いてきたし、我々はいつの時代の日本人よりも働いているでしょう。だから、何かがおかしいと思えるでしょう。
    ここなのだ。値引きをするからいけないのではないか。
    現代社会のいわゆる格差問題が配分の問題であるとして、値引きを請負企業から請負企業へと強いてきた結果であろう。だから、「大企業だけ業績がいい」という批判につながる。
    広い視野で見れば、というか、恥ずかしいくらいロマンチックな見方をすれば、うちだけでなく、あの会社も、その会社も、そして社会全体の売上が上がれば、景気がよくなるんちゃいますのん?
    共産主義かって? ちがいます。まだこれに名前は付いていません。ここには「値引きを拒絶できるほどスペシャルな仕事をする」という自由競争があるのだ。ジャパンがとっても得意な感じの競争でしょう。
    それに、資本主義は敗北しました。あの二〇〇八年の秋に死んだはずだ。アメリカ合衆国と言う自由主義信奉国家がメガバンクなどの民間企業の救済に手を入れた瞬間に。
    だから、日本はこれに名前を付けられるようにがんばればいいと思うのだ。
    一月なので、まぁ、そんな夢みたいなことを書きながら、大企業に勤める私は昨年も取引先にたくさん値引きをお願いしたことは正直に吐露しなくてはなるまい。本当に申し訳なかった。断腸の思いだ。
    私の会社も仕事を受注する立場である体質と、あとは、私の保身だと思ってほしい。
    人様に加えて自社にも損害を出した。そろそろクビやな。今日の出来事だ。
    • 僕「すみません、やってしまいました」
    • ボス「わざとか?」
    • 僕「……いいえ」
    • ボス「ほなええわ」
    今年も一年、みなさまにとってよい年でありますように。
    というか、なんとかかんとかやっていきましょう。やれやれ。