月刊ショータ

元電通コピーライター。ずっと自称コラムニスト。著書『広告業界という無法地帯へ ダイジョーブか、みんな?』、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』

「アメリカのなんやねん(後篇)」

関西以外にお住まいの方はご存知ないかもしれないけど、よしもとにプラン9というお笑いグループがありまして、その中でも地味なキャラであるヤナギブソンという人がいる。妻との馴れ初めなんかを滔々と語り、途中で気付いて「誰が興味あんねん!」と自分でツッコむギャグを持っている。あれ、僕は好きである。

そんなわけで、今日もホットドッグを食べてしまった僕の「誰が興味あんねん!」話、の続きである。

  • 【Tim McGraw(ティム・マグロウ)】

アルバムが出たら必ず買うアーティストというのが、何人かいる。前評判とか全然考慮せず、出たら買う。買ってから、自分で考える。それはあたかも、とりあえず三十八口径をぶっ放して、物音がしなくなってから誰何するように(アメリカ的比喩その三)。

僕にとってティム・マグロウはそういうカントリーシンガーだ。マッグロウ、マックグロウなど、いろんな表記がされているようだが、McGrawの発音は「マグロウ」としか聞こえない。

もしかすると、「フェイス・ヒル」の旦那さん、という紹介の方がわかりやすいのかもしれない。フェイス・ヒルは、映画「パールハーバー」のテーマ曲を歌ったり、日本でもCM曲やドラマ主題歌として使われるくらい認知がある。 だけど、カントリー界としては、ティム・マグロウは決して妻の陰に隠れることはない。現代カントリーを代表するシンガーの一人である。

初めて聴いたのは僕が高校の時、父親が入手してきたカントリーのミュージッククリップ集でティム・マグロウのデビュー曲である「Welcome to the Club」を聴いたのだ。ほどなく、僕は彼のアルバムを買うため池袋のWAVEに行っている。ティム・マグロウ自身がかつて雑誌のインタビューで「デビューアルバムは(ゴールドディスクにもプラチナにもならず)ウッドだった」と冗談にするくらい売れなかったわけだが、地球の裏側で日本の少年が小遣いはたいて買っていたことを伝えたいものである。

その後、セカンドアルバムに収録された「Indian Outlaw」がメガヒットとなり、池袋のショップで流れる有線放送かラジオかで耳にした時は驚いた。

その後順調にキャリアを築き、ゴージャスな奥さんをもらって、アメリカでは珍しく離婚することもなく三人の娘を授かって家庭を維持している。

僕は、ティムとフェイスが結婚する前に共同で行なったツアーを観ている。確かテネシー州のノックスヴィルだったと思う。

当時、フェイスはつまり、ティムの前座だったわけである。まだ陽が出ている時間にフェイスのステージは行なわれ、暮れてからティムが登場した。終盤あたりでフェイスが再びステージに呼ばれ、二人がデュエットをしてコンサートは最高潮となった。

当時は付き合っているとは知らなかったから、アヤシイくらいに見つめ合う二人に対し、観客が「キスしろ!」「キスしろ!」と、下品に囃し立てる。すると、ティムは本当にキスしやがったんだな。それがまた、とんでもなく美しいキスシーンを見せつけられたのだ。その時のレッドネックたちの喜びようといったら……。童貞に毛が生えた程度の実力であった僕も、「アメリカ人てのはどえらいキッスをするっぺさー」と、茫然とそこに立ち尽くした。

ティム・マグロウは、最近では映画出演までこなしている。有名なところでは、サンドラ・ブロックがアカデミー主演女優賞を受賞した「幸せの隠れ場所」。スラム育ちで問題を抱える黒人青年を、白人家族が保護者となって迎え入れ、大学に上げ、フットボール選手に育てていく心暖まる佳作である。強気で前向きな妻(ブロック)に対し、やさしい旦那さん、あれがティム・マグロウその人である。 もっとも、カウボーイハット姿とはほど遠いので、作品を観たうちのおかんは「で、ティム・マグロウはどこに出てたの?」と言っていたくらいだ。エンドロールの主題歌も、彼の歌う「Southern Voice」だ。

ティム・マグロウ本人は、フィラデルフィア・フィリーズなどで投げた野球選手のタグ・マグロウの息子である。しかし、それを知ったのは彼が十一才の時であったという。それまでは育ての親が実父だと思っていたのだ。 その後父親であるタグと邂逅し、バドワイザーのCMで共演までしていたのを、僕はなんだか微笑ましい気持ちで見ていたなぁ。

音楽として、自分がティム・マグロウのどこを評価しているのか、しばらく考えてみたのだがよくわからない。いや、すごく良いのだけど、簡単には説明できない。 ただ、筋骨隆々でゴーティー(日本語でいうドロボウ髭)を生やした保安官顔の彼が、実は家庭人であったり、出世作となった「Indian Outlaw」以降ヤンチャな「I Like it, I love It」「Something Like That」などのダンスソングでヒットを重ねたばかりでなく、「Live Like You Were Dying」で四十代にしてガンに侵された男が、これまでできなかったことをやって善く生きようとする姿を歌ったり、「If You're Reading This」で戦場から死を覚悟して母や妻に宛てて書かれた手紙を歌ったりと、人間の奥底に手を伸ばすような歌を歌い続けている両面性が、僕を約二十年間も捕えて離さないのだと思う(ご興味あればYoutubeで検索を)。

それは彼自身のちょっと哀しい生い立ちにも関係するのではないかと、僕は勝手に想像するのである。

そして、そういう、外見上はタフでマッチョで、しかし心にはやさしさを隠し持っている男というのは、僕らがもはや妄想とも呼べる理想の上で考える、真のアメリカ人の姿であったりするのだ。

http://www.timmcgraw.com/

そんな彼の名前をそのまま付けた「Tim McGraw」という衝撃のタイトルの曲でデビューしたのが、今、世界中で人気を博している美少女シンガーソングライターのテイラー・スウィフトである。

夏の終わりとともに去っていった恋を回想する歌である。「ティム・マグロウを聴いたら、ワタシを思い出してくれたらいいな」という少女のいじらしさに心がぎゅっと掴まれるような詞なのである。そこには夏の淡い恋の青くささとか、ぎこちない恥じらいとか、もう手の届かない時間というもののどうしようもなさとかが滲み出ていて胸を突かれるのである。

十代にしてこんな歌を書いてしまうという点のみでも、彼女の才能とその後の活躍を約束していると、僕には思えた。 それは、ガソリンタンクに小便を入れたら、車は走らなくなることくらい確実なことに思えた(アメリカ的比喩その四)。

曲を聴いて思いがけなく誰かを思い出すこと、思い出すために聴く曲、そしてだからこそ聴けない曲というのが誰しもあるものだ。

人生は思い通りにならないことばかりで、恋愛などその最たるものだ。「会いたい」でもなく「電話してほしい」でもなく、ただ「ティム・マグロウを聴いたら、ワタシを思い出してほしい」、いや、「思い出してくれたらいい(I want you to ではなく、I hope you…)」という奥床しさ。それは演歌云々ではない。ちゃんと人を向いて作られているかどうかだ。

「会いたかったー、イェイ!」とかで踊らされるんじゃねえよ! オトナの常識で考えたら、五十のおっさんに抱かれとんねん……。

先日、テイラー・スウィフト大阪城ホールでのアジアツアーコンサートに足を運んでみた。驚いたのは、「完全にアイドル」なのだ。誰もカントリーシンガーと思って聴きに来ているわけではない。いや、一人カウボーイハットをかぶった男性を見かけたが、九十九パーセントはアイドルとしてのテイラーを見に来た人たちなのだ。

5.1ch並みに四方八方から「かわいいー!」が飛び交って、なんだか苦笑を禁じ得なかったのだが、ファンとの距離感はガース・ブルックスの項で述べたような近さだ。 メインステージで歌った後、狭い通路をもみくちゃにされながらもファンにタッチしながら会場後方へ進み、そこに設置された小さなサブステージに上がる。そして、後方を向いて一曲、上手を向いて一曲、下手を向いて一曲。

  • 「あ、やっぱりこのコはカントリー歌手なんだ……」
  • と、妙に納得した。

「実際に会えるアイドル」をコンセプトに大人の手によって一房どころか箱ごといくらのバナナの如く結成されたものの、一旦売れたらもはや会えるどころか集金マシンとして働かせられまくり、マッチポンプの人気投票で話題を作り、人気がない者は「卒業」という名の馘首宣告をされる我が国の「アイドル」。 この差を思うと愕然とするしかないのである。

どれくらい愕然かって、町にふたつあった床屋のうちひとつがバーガーキングに替わって、クラス全員同じ髪型になった時くらいだね(アメリカ的比喩その五)。

(了)

「アメリカのなんやねん(前篇)」

日曜日。僕は朝からホットドッグとベイグルを食べて、午後からモーターサイクルに跨がり、クリント・イーストウッドの映画を観に行き、帰りにウェイトトレーニングをして、夜帰ってきた。 あとは、午前中に教会に行って、庭の芝生を刈れば、ほぼ完全なアメリカ人の週末の過ごし方になってしまう。ちょっと孤独ではあるが、かなりアメリカンだ。

好きと嫌いにかかわらず、アメリカという国はもはや避けがたくこの国の、いや、世界中の文化に浸透している。その事実は周知であろう。 今日もナイキを履いて歩いたでしょう? エイバークロンビー・アンド・フィッチ(いわゆるアバクロ)とか着たでしょう? 「ゴシップガール」とか「デスパレートな妻たち」とかのアメドラを観たでしょう? メジャーリーグの試合を観たでしょう(たとえ日本人選手目当てだったとしても)? マクドナルドを食べたでしょう?

それくらい「衣食遊」に完全な浸透を許しているのである。いや、そういう言い方は良くない。それくらい当たり前に僕らはアメリカを楽しんでいるし、様々なカッコいいモノ、便利なモノ、頑丈なモノを享受して、生活を豊かなものにしているのである。 社会経済学的には弊害もあるのだろうけど、一旦無視。だって、僕は以前にも書いたように反アメリカ国家で、親アメリカ国民(文化)だから。

で、今回、僕が言いたいのは……、

  • 「ではなぜ、『アメリカの心』を聴かないのですか!?」
  • ということだ。

ごめんなさい、カントリーミュージックの話です。興味ない人は読まなくていいですが、せっかくここまで読んだ方はできれば、お時間許すなら、最後までお読みください。五分で終わるんで。アンケートだけ答えてくれたらいいので。素敵なプレゼントがありますので……。いや、ないけど。ほぼ路上のキャッチ行為みたいになってきた。

僕は聴き分けられるのだが、僕らは普通に暮らしながらカントリーを耳にしている。KFCや、スーパーや、テレビ番組のBGMでたまに流れているのである。だから、先入観がなければそれを聴いても「古くさい」とも「泥くさい」とも思わないし、自然に聴き流しているのである。 だから、日本のレコード会社はカントリーは「カントリーと言わずに」売ることにした。 「カントリーは売れない」というジンクスが長らく存在していて、それを覆そうと少数の方々が努力をしたものの、このジンクスは尼さんの股のように堅いのである(アメリカ的比喩)。実際に打ち破ることができていないのである。

僕の父親は生前、九〇年代に日本カントリーミュージック協会というものを立ち上げ、およそ十年間に渡り普及活動に取り組んでいた。だから、まぁこうやって息子の僕がちょいちょいカントリーを話題にするのは、しなくてはいけない行為、義務というか、語られざる遺言のようなものとお考えください。

カントリーと知らずに聴けるものであるとすれば、どうせなら、カントリーと知って聴いてもらいたいものである。それは、誰のケツの穴かわからずに突っ込むようなものだからである(アメリカ的比喩その二)。

カントリーの歴史的な背景とか音楽的な蘊蓄を語り出すと面倒なことになるので、ここではよくあるひとつの設問にだけ触れておこう。

  • 「カントリーって、アメリカの演歌でしょ?」

これに対する答えは難しい。YESであり、NOである、としか言いようがないのだ。だってそれは、「ハンバーガーって、アメリカの寿司でしょ?」という質問と同じなわけである。なんて答えたらいい? そう言ってしまえばそうなんだけど、明らかにそうは認めたくない感じでしょ。

どうです? めっちゃ認めたくないでしょう。

カントリーというのは、それを聴かないアメリカ人からすると、「女にフラレて酒を飲む歌ばっか」と思われている。確かに、そういうウェットな要素は多い。そこが演歌ではあるのだ。熱燗はウィスキーに、船はピックアップトラックに、置き換え可能かもしれない。 しかし、だからと言って、音楽的に何か共通項があるのかというと、僕にはそうは思えない。音楽のことはわからんが、どうなんだろう。たぶんない。

基本的に、現代カントリーは、もはやロックでありポップ(最近はなんていうんだ? 昔はトップフォーティーで通じたけど、ビルボード用語だわな)である。 エレキギターエレキベース、ドラム、アコースティックギターにヴォーカル、という普通のバンド編成に、フィドルと呼ばれるヴァイオリンとスティールギターが加わると、ぐっとカントリーらしくなる。そんだけ。 バンジョーとか、マンドリンとかは必ずしも入らない。それらはブルーグラスという、またちょっと(重なり合いながらも)違うジャンルになっていくのだ。

まぁ、なにがカントリーかというのはアメリカでも論争があるくらいだから(ポップ化に対してトラデショナルなファンや業界人が反発している。但し、ここ数十年も……)、措いておこう。実際に一流のアーティストを紹介するのがカントリーを知る最良の方法だ。

しかも、マニアックにならないよう留意して、とってもメジャーな三人のみご紹介させていただく。

前にも紹介しましたね(二〇〇七年七月号ご参照)。その時はこう書きました: ガース・ブルックスというのは、全世界で一億一五〇〇万枚以上のセールスを記録している、現存する伝説のカントリー歌手である。九〇年代に、単なるアメリカの田舎音楽であったカントリーを全米的な人気へと押し上げた功労者であり、プレスリーやエルトン・ジョンマイケル・ジャクソンらと比肩して、その名を音楽界の歴史に刻むべきミュージシャンである。(中略) ちなみに、彼は若くして音楽業界から「引退」を表明し、現在はオクラホマ州に住み、チャリティ活動に専念しているそうだ。

そうなんです。わかりやすいように数字で補足すると、RIAA(The Recording Industry Association of America)によると、アメリカでの売上枚数でトップのアーティストというのは下記の通りである。

http://www.riaa.com/goldandplatinumdata.php?table=tblTopArt

マーケットが世界中になると順位は変わるが、殊アメリカについてはまぁ頷けるリストである。錚々たる面子が並んでいることがよくわかる。 こういう言い方もできる。「カントリーというのは『BG/AG』しかないのだ」。ビフォー・ガース、アフター・ガースである。

良くも悪くも、「女にフラレて酒を飲む歌ばっか」だったカントリーにおける「歌うべきこと」や「コンサートのあり方」を、永遠に変えてしまった人なのである。 たとえば、ドメスティック・ヴァイオレンスというテーマをカントリーとして初めて取り上げた(「The Thunder Rolls」)。暴力夫を妻が射殺する示唆があったため、ミュージックビデオがテレビでは放送禁止になったりした。 飢餓や言論の自由、人種の平等にまで言及した歌もある(「We Shall Be Free」)。それも説教くさくない見事なノリで。それまでカントリーは白人至上主義スレスレの音楽ジャンルだったわけで、そういうテーマを扱うのはタブーにも近かったのである。

コンサートがまた素晴らしい。僕も死ぬまでに一度ガースのライブを観てみたいと思っていた。ギターを叩き壊したり、喚きながら走り回ったりといったカントリーからは逸脱したパフォーマンスが本国では語り種であったりするのだが、そこは本質ではない。

では、なにか。どんなに伝説的なシンガーになっても、お客と握手して回り、一緒に写真に収まり、最後は投げ入れられたり手渡されたりする花束を山ほど抱えてステージを去る姿である。最前列の観客など、ガースのカウボーイブーツにしがみついている。アイルランドで行なったコンサートでは大観衆の腕に支えられて、大の字に空を仰いで彼らの頭上をぐるりと一周フロートする様子(大玉転がしの要領)が記録されている。ほとんど奇跡を見ているようだった。

どんなに巨大なドーム会場であっても、最後尾のお客からどう見えているのか確認するために、リハ中にそこまで行って見てみる、とインタビューで語っている。チケットも、誰でも来やすいように二十五ドル以下に設定するようにしていたという。

僕は先日ガース・ブルックスのライブDVDボックスを購入したのだが、一日で二枚観て、恥ずかしながら二回泣いたね。

それに比べて、日本のアーティストは、コンサートの様子は、どうだろう? やたらセキュリティにばかりうるさくて、客との距離が遠くて、カメラすら持ち込めなくて(アメリカではあり得ない。まぁ携帯カメラやプライバシーの問題で最近は撮影禁止も形骸化しているようだが)、そのくせチケットは高くないだろうか? 売れたら急に取り巻きばかりが増えて、値打ちコクことばかりに腐心してはいまいか。 ファンサービスで頭が下がるのは桑田圭祐さんくらいだ。

  • 「ガース・ブルックスって、アメリカの桑田圭祐でしょ?」

この比喩は僕には全く語弊ないように思える。

「If Tomorrow Never Comes」とか「Unanswered Prayers」といった美しいバラードも紹介したいし、訳の意味もお教えしたいのが、紙幅の関係でこのへんで。 ご興味ある方はこちら: http://www.garthbrooks.com/

うわぁ! 長くなり過ぎたので続きは次回。あかん、僕以外誰も興味ないのになんぼでも話せるっ。

(つづく)

「権威の正しい使い方」

僕が高校生の頃はインターネットなんかなかったし、自転車通学で電車も乗らなかったし、当然新聞も読まなかったから、本を買う時は常に書店での「ジャケ買い」だった。

その後、本には賞というものがあるのを知って、ナントカ賞受賞と書いてあるものを優先的に手に取るようになる。全米図書賞とかアメリカ探偵作家クラブ賞とかピューリッツァー賞とか。自然と権威主義になっていったわけである。

やがて、自分の好きな作家というものが把握できるようになってきて、賞とは関係なく本を選べるようになったわけだが、やはり未知の作家の著作に手を出す際にはなにかの賞を受けているものから入ることが多い。最近ならコーマック・マッカーシーピューリッツァー賞受賞の『ザ・ロード』を読んでから、全米図書賞の『すべての美しい馬』、そして『平原の町』『越境』の国境三部作と進んだように。興味ない人、すみません。

私見では、日本の小説なら「吉川英治文学新人賞」を受けた作品はほとんど間違いないと思っている。エンタテインメント小説として読み応えのある傑作が毎回選ばれている。

このように、賞というのは「何から読んだらいいのかわからない人に、初めのきっかけを与える役割」としては非常にうまく機能していると思う。 アメリカのアカデミー賞グラミー賞も毎年世界的な注目を浴びて、極東に住んでる僕みたいな人間ですら、「アカデミー作品賞を受けた作品はとりあえず観ておこうかな」とか思うくらいだ。

しかし残念なことに、日本には権威のある映画賞、音楽賞というものがない。いや、あるんだけど、注目されていない。つまり権威がない。権威とはここでは、議論の余地なく信頼できる価値である。

だって、去年の日本アカデミー賞の最優秀作品賞を知ってますか? 東京国際映画祭のグランプリ作品を知っていますか? ちなみに前者は「沈まぬ太陽」で、後者はニル・ベルグマン監督「僕の心の奥の文法」だそうだ。知らん。すまん。知らん。 「沈まぬ太陽」は知ってたが特に観ておこうとも思わなかった。

音楽界はさらに深刻だ。この国には「日本レコード大賞」とか「日本有線大賞」とか「日本ゴールドディスク大賞」という賞があるそうだが、みなさん、大して気にしてないでしょう。

中でも「最も有名」とされているレコード大賞っていうものの体たらくたるや酷いもので、まず「本番の番組に出演できないアーティストは大賞にならない」不文律があり、都合のいいアーティストしか選ばれないという。 最近では一部のレコード会社に賞が集中する傾向があるというが、まぁそれはそういうこともありえるだろうから僕は批判するつもりはない(オールスターゲーム阪神の選手ばかりになることもあるようなものか)。

しかし、レコード大賞において最悪なのは審査方法が不透明な点に尽きる。

審査委員の人らが相談して決めるらしいのだが、それだったらブラックボックスに突っ込んでガラガラポンなわけで、結果的に外部の「有力者」の意見に影響された(というか強制された)としか思えない受賞者や候補者が選出されている。 みんな知らないと思うから書いておくと、二〇一〇年の大賞受賞者は三年連続でエグザイル、最優秀新人賞は、えーと誰だったっけな(検索して調べる)、スマイレージ。はい、誰やねん。知らん。すまん。知らん(反省なし)。 これ以上は検索して調べる気も起こらないので、スマイレージは放っておいて先に進む。ほんまに今初めて聞いた名前だ。

加えて、今年の最優秀歌唱賞が近藤真彦氏らしいのだが、なんか歌ってたの? 別にマッチは嫌いではないですよ。ジャニーズの中では敬意を払われていいタレントだと思うけど、なんにせよ最優秀な歌唱能力なり技術ではなかろうということは疑いないでしょうに。 もっと言えば、週刊誌が指摘していたように、今年の売上ベストテンをAKB48とともに独占した嵐に大賞をあげない代わりに先輩であるマッチのこの賞の受賞で手を打ったと思われても仕方ないだろう。

米国のアカデミー賞映画芸術科学アカデミー会員の投票によって選ばれるそうだ(日本アカデミー賞も似たような方式)。かといってこれが最良で最も公正な方法かどうかはわからない。 一定水準以上の作品が毎年選出されているとは思えるが、神様が選ぶわけではなく、人間がすることだから必ず異論は出るし、全員納得の受賞などむしろ気色悪いかもしれない。 そういう意味では、あらゆる賞が胡散臭いとも言える。

正直、漫才のM-1グランプリだって、不自然だとは思いますよ。いくら笑い飯がおもしろいからって、二~四千組がエントリーする中で、九年連続で決勝に上がれたり、二年連続で前年勝者が敗者復活で上がってきたり、毎回実力的には「?」と思える人気コンビが決勝に来てたり(二〇一〇年でいえばピース、〇九年はハリセンボン)といった番組を盛り上げる演出と感じられる部分は多々ある。

本当に公正におもしろいもの(予選で受けた者)を選んだら、二〇一〇年のスリムクラブや〇七年のサンドウィッチマンのように無名に近い人々ばかりが大半を占めてしまうこともありえたわけだ。

だけどなんだかんだで毎回なんとなく納得度の高い閉幕を迎えてきたのは、実力が拮抗していて「誰が獲ってもおかしくない」状況での戦いが展開されていたからだ。出来すぎにも思える笑い飯の最終大会での優勝も、「おかしくはない」程度には合理的な結果だ。

レコード大賞はそこがおかしいから、おかしいのである。そして、おかしいから、権威が、つまり価値が、ないのである。

結局我々下々の民には内幕は永遠にわからないわけだから、「おかしくはない」結論を出してさえもらえればいいわけだ。だって、おそらく知性のある人間の目で見れば、業界の力関係と賞は無縁ではいられないし、実力者の圧力もあるだろうし、オトナの事情も不可避だろうし、飲ます食わす抱かす、もしくはおフェラの一回や二回くらい取引されていても疑問はない。 現在最も組織として機能が低下してるテレビ局(TBS)が運営しているものだし。 あ、知性が「お」を付けさせたよ。

そないに興味もないレコ大に関して長々と書いてしまったのは、日本の音楽が心配だからだ。ミュージシャンという特殊能力を持った人たちを称えて、優れた作品、それこそ僕ら凡人はひれ伏したくなるようなドエライ楽曲を憲章して、盛り立てていかないと、先細る一方ではないか。 賞というとても便利な装置を活用して、リスナーを増やし、人とかかわる機会を増やし、権威を高めていかない手はないではないか。

結果的に損するのはミュージシャンや音楽業界であることは当然ながら、僕らリスナー、ミュージックラバーも大損なのだ。 だから、せっかくの健全な権威を貶めるような行為は犯罪的なのだ。現実に「レコ大受賞作品なら買ってみよう」となっていないのだから、全く機能していないじゃないか。 少なくとも僕は、現在のレコ大に出てくるような楽曲でいい音楽を楽しみたい欲求は満足させられない。

最後に、敬愛する浜田省吾氏の言葉を(※註)。 「音楽業界の人間が、『誰が何週連続一位だとか、何百万枚売った』とか数字の話ばかりするようになって、『あの人は新しい音を作った』とか『あの曲は音楽を変えた』といった“音楽の話”をしなくなった」

ズシッと心にきますな。 (了)

※註釈:テレビ番組で言っていたことを記憶で書いたので、正確ではないけど主旨はこうでした。

「私から言えることはひとつだけです」

世の中には知らない方がいいこと、知りたいけど知らない方がいいのがわかっていることというのは多い。

ベランダでふとんをバタバタしている人がいるが、そこで払われた埃はどこへ飛んで行って、どれくらい人に吸い込まれているのか。 清潔でいえば、このトイレのドアノブを触らないと外に出られないが、前回通った人は手を洗ったのだろうか。 バイ菌でいえば、それどころか居酒屋のこのグラス、昨晩大学生が調子に乗ってチ○コとか突っ込んでいやしまいか。 突っ込んでいるでいえば、食品にガンガンに突っ込まれているアスパルテームだとか、L-フェニルアラニン化合物だとか、アセスルファムカリウムだとかの人口甘味料が本当のところ人体にどうなのか。 人体への影響でいえば、外食で使われる野菜は、どこの国でどんな環境の下で作られているのか。スーパーに行けば、どれも栃木県産とか北海道産とか国産なのに食糧自給率が四十パーセント(※註釈1)ということは、どういうことなのだろう。 スーパーでいえば、陳列された大量の食品はどれくらい売り残って、どこに廃棄されるのか。豚の飼料になると言われても、個装されたお菓子なんかを一つひとつ剥いてバラすとは思えない。 売れ残りでいえば、ペットショップで売れ残った犬や猫はどこへ行くのか。 命でいえば、この二歳くらいの子供を連れたオバハンは、つまり約三年前にセックスしたのだろうか(あ、これは答えはわかってんねんけど、詳細は不要)。 したのだろうかでいえば、後輩の神市(仮名)は、入社間もない頃「あややはまだバージンですかね?」ということに頭を悩ませていた。知らないよ! 知らないし、知ることもできないし、それをオレに訊いてどうする。

疑問はいくらでも連鎖する。

僕は以前から、排水口に流したスープの残りやヒゲ剃りのカスや歯磨き後の「ペッ」が本当にきれいにされて自然に還って、そして水道に戻ってきているのか不思議であった。

先日テレビを観ていたら、牛乳を水に流してしまうと、それを再使用できる程度まで希釈するのにはものすごく大量の水を要してしまうという実験をしていた。だから、牛乳や味噌汁やカレーは、下水に流さないでほしい、という。 たとえばカレーなら、まずキッチンペーパーや新聞紙で拭き取ってから洗浄に回してほしいのだという。

僕はそんなこと知らなかったので大いに頷き、今度からなるべく食べ物や飲み物は飲み干すようにしようと思ったのである。

しかし、考えてみたら、人間、食べ物を食べて生きていく限り、ウ○コやシッコは出るわけで、どのみち同じじゃねえのかという気もしてくる。

飲み干したら飲み干したで、それだけ余分にオシッコが出るわけで、それがどこに行くって、下水に流れるのだ。

で、その下水が処理されて、巡り巡って、また僕らの飲み水として帰ってくるのであれば、「味噌汁を溶いた水」と「ウ○コシッコを溶いた水」のどちらが原料としてマシなのかは明らかではないか。

現代の下水処理の方法がどんな最新科学技術を駆使したものかは知らないが、きっと多くの人が知りたくもないはずなのだ。知ると言うことは限界も知ることになる。

都民が質問。

  • 「では、ウ○コもシッコも、完全にキレイにできるんですね?」

下水処理施設の職員の方がこう答える。

  • 「『完全にキレイ』という表現は我々は使わないのですが、バクテリアによって人体に影響のないレベルにまで分解はできます」
  • 「え、影響がない。ということは、飲んでるかもしれないけど平気ってことですよね?」
  • 「……ええ、そう、安全といって大丈夫ということです」
  • 「いやいや、今の一瞬の間はなんですか。つまりウ○コ成分は入ってるんですか、入ってないんですか?」
  • 「何をもってウ○コ成分とおっしゃっているかという問題がですね……」
  • 「定義を議論したいわけじゃなくてね、ウ○コはゼロパーセントだっていえるんですか?」
  • 「あのー、……いいですか。現時点で、私から言えることはひとつだけです」
  • 「なんですか。おっしゃってください」
  • と、一度姿勢を正す都民。職員が真っ直ぐ見据えてくる。
  • 「この場で聞いたことは、一切口外しないと約束できますか?」
  • 「わかりました。約束します」

説明員が表情を一瞬和らげると、囁くように言う。

  • 黒木メイサも、我が自治体にお住まいです」
  • 「……なら、いいです」

いや、なんでこんな話をしたかというと、世界というのはそのように成り立っているということを言いたいのだ。実態がどうあれ、我々が認識しうる限界こそが、我々の住む世界なのである。そしてもっと言えば、認識しうる姿こそがもはや実態であるのだ。

エコの話。 これだけ地球温暖化が言われて、そのために二酸化炭素削減の努力を企業ごと、国家ぐるみで行なわれている最中(※註釈2)、実は地球は寒冷化に向かっているという説も根強いではないか。

残念ながら、双方とも僕には難しすぎて全くわかりませんでしたが、念のため紹介:

日本経済の話。 日本は没落すると言う人。日本は再浮上するという人。 以下、実際に書店で見てきた書籍名ですが、子供のケンカのようなバカバカしさを感じてほしいので、あえて著者名は省略します。ご興味ある方はご自分で調べてみてください。

  • 『絶対よくなる! 日本経済』
  • 『日本経済余命3年』
  • 『2014年日本国破産 衝撃編』
  • 『2011年日本経済 ソブリン大恐慌の年になる!』
  • 『日本経済の真実 ある日、この国は破産します』
  • 『日本経済このままでは預金封鎖になってしまう』
  • 『消費税で日本崩壊』
  • 『日本は破産しない!』

最後の「日本は破産しない!」はもはや涙声ですよね。

国際情勢の話。 チャイナが世界を牛耳るという人。崩壊に向かっているという人。

  • 『中国ひとり勝ちと日本ひとり負けはなぜ起きたか』
  • 『日本支配を狙って自滅する中国』
  • 人民元がドルを駆逐する』
  • 人民元基軸通貨になる日』
  • 中国経済・隠された危機』
  • 『中国の経済専門家たちが語る ほんとうに危ない! 中国経済
  • 『中国が世界を思いどおりに動かす日』
  • 『中国 危うい超大国
  • 『やがて中国の崩壊がはじまる』
  • 『中国は崩壊しない』

もうなにがなんだか……。 先ほどの「日本は破産しない!」と「中国は崩壊しない」を並べてみると、世界がとっても平和に見えてきますね。

こんなものまで。

  • 『今こそ金そして銀を買う』
  • 『金は暴落する! 2011年の衝撃』

こんな感じだから、(国や環境の)将来のこととか、自分の人生のこととか、考えるのが本当にアホらしくなってくる。わからんもんはわからんのだし、結局なるようにしかならんのだ。

おそらく人は、自分が信じたい未来を補強する説にしか興味を示さない。だって、僕がそうだし。

きっと日本は大丈夫だ。(チャイナの、そしてあらゆる)バブルはいつか崩壊する運命だし、日本は景気の波に翻弄されながらも凌いでいける。僕は日本人ほど優秀で勤勉な国民は見たことがない。 ちなみに、僕はそないに他の国民を見てはいない!

人類は大丈夫だ。地球が温暖化しようが寒冷化しようが、適応して生きていける。とりあえず、ボタンひとつでクーラーもヒーターも切り替え可能だからなんとかなる!

どうせ考えてもわからないのだから、いいように思っておくのが幸せに生きる方法ではなかろうか。

ただの一杯の水でも、メイサのオシッコだと思って飲めば、ほら、すぐにでも幸せになれ……、ここ大阪やん! メイサ、ゼロパーやん

(了)

  • ※註釈2:二〇一〇年十一月二十四日の気象庁の発表によると、世界気象機関(WMO)の調査で、温室効果ガスの二〇〇九年における世界平均濃度が、過去最高値を更新したそうだ。大気中の二酸化炭素の平均濃度は三八六・八ppmで過去最高だった前年を一・六ppm上回ったという。
  • (二〇一〇年十一月二十五日産経新聞より抜粋)

いかにムダな努力とムダなお金の遣われ方がしてきたかだ。

「やっぱりわかってないのね感」

  • カワサキ オートバイ」とカタカナで胸に大きく書かれたTシャツを着ていたら、会社で色々な人に声をかけられた。
  • 「なんでカワサキなの?」とか「バイク好きなの?」とか「それ、いいねぇ」とか。
僕は普段は社名やブランド名が書かれた服は避けている。自らお金払って(お金出してその服を買って)まで、広告媒体をしてあげる義理はないと思うからだ。そして、胸に書いてあるメッセージには責任を持つつもりがあるからだ。
僕にはカワサキをPRする理由がある。
僕はカワサキのモーターサイクルに乗っていて、カワサキという無骨で不器用なメーカーを応援していて、川崎重工株式会社の株主でもある。だから、胸に「カワサキ」と書いて表を歩くのだ。
それにしても、いくら僕がカワサキ乗りであることに誇りを持って「カワサキ オートバイ」Tシャツを着ていようと、もしもそれが「KAWASAKI MOTORCYCLE」の表記であれば、あれほどの人が僕に話しかけてきたであろうか。
いや実は僕は答えを知っている。「KAWASAKI」とアルファベット表記されたシャツも持っているのだ。当然、そんなふうに話しかけられることはない。
昔、僕の塾のセンセイが言っていた。
  • 「君たち、『コカコーラ』と書いたシャツは平気で着るくせに、それが『伊藤園の梅こぶ茶』だったら着ないよな。なんでだ?」
伊藤園は梅こぶ茶を出してはいないようなんだが、まぁいいや。そうなのだ。なんでだ?
コカコーラはカッコよくて、梅こぶ茶はカッコ悪いからか。
確かに、梅こぶ茶を何杯飲んだって、水着美女たちと浜辺で戯れるような、そんなコークなシチュエーションには辿り着けないだろう。オシッコだけが近くなる気がする。
ところが、「Coca Cola」は着るけど、「コカコーラ」であっても着ないではないか。
同じ言葉でも、アルファベットになった時点で、日本人にとっては、意味が薄まってしまうようだ。Coca Colaはコカコーラではない。極言すれば、単なる模様というか、デザインの一部になってしまう。
  • カッコよさ基準で言えば、
  • Coca Cola > コカコーラ > 伊藤園の梅こぶ茶
  • ということになる。そして意味の明瞭さでは、
  • 伊藤園の梅こぶ茶 = コカコーラ > Coca Cola
  • ということになる。
日本人はTシャツの言葉に意味を求めてはいないのだ。求めているのは、なんとなくな雰囲気だけで、そこにメッセージや何かの象徴は不要なのだろう。さらに、アルファベットにも意味を求めていない。だから、なんかアルファベットで書いてあったら満足なのか。
そこが致命的に恥ずかしい点だと思う。人様の言語を知ってるつもりで実は理解していないくせに、敬意も払わずに勝手に使う。ただの意味のない「カッコよさげな」デザインの一部として扱ってしまう。
言語である限り単語には意味があり、文には文法がある。そこを無視して、表層だけを拝借する。
そして、最もカッコ悪いのは、「それがカッコいいと思っている」感覚だと思う。
たとえば、固有名詞で申し訳ないが吉本興行が「ライブスタンド」というイベントを催していて、ここ何年か大々的に宣伝している。これは音楽フェスのお笑いライブ版で、全席スタンド(立ち見)でやっているから、こういう名称になったものだ。だけど、LIVE STANDでは、英語として通用しない。どういうふうに解釈されるかは、僕はアメリカ人じゃないからわからない。ともかく、LIVEは「生の」とか「その場の」という形容詞で、名詞ではない。STANDにはカウンターとか停留所とかの意味があるから、「生のカウンター?」、「生きろ! 立て! って命令形? なんかそういう長渕的イベント?」、ん? なに? となって、おそらく、「わけわからん」と思われるだろう。
辞書によると、STANDには「巡回劇団の巡業地」という意味もあるらしいけど、それにしても意味はよくわからない。単語の音だけで並べてみて、その二つの言葉を複合した時にどういう意味を生んでしまうのか検討されていないから、こういうことになる。
とあるファストフード店の包み紙に「Native Diet」と書いてある。言いたいことはわかる。日本人で、それなりに英語も理解する人には。
  • 「本場アメリカで食べられている健康的な食事(をそのまま、ここ日本に持ってきました)」ということでしょ。親切に意訳すれば。でも、残念ながら「Native」に「アメリカ人」という意味はないから。
  • 「Native」は「先住の」「生まれながらの」という意味である。だからアメリカでいう「ネイティブ」はいわゆる「インディアン」を指すことになる。だから、アホな女が「ネイティブみたいに話せるようになりたーい」とか言ってるということは、
  • 「ニッポンジン、ウソツカナーイ」
みたいな喋り方をしたいのかなー、と〇・三秒くらい僕は考えてしまう。
  • 「ネイティブ・スピーカーのように英語を話したい」、もしくは、「ネイティブ・イングリッシュ・スピーカーのように話したい」と言わなくては意味がおかしいのだ。
それにしても、こういったことを僕が指摘すると、必ずこういうことを言われる。
  • 「いいんじゃない? 日本で通じるんだから」
日本で通じればいいなら日本語で書けよ! と僕は思うのだ。わざわざ他所の国の言葉を遣って間違ったり誤解を生んでおきながら、「日本だからいいじゃん」はないだろう。
そういう無神経さが、この国を恥かしいものにしているのに、気付かないのか。……気付かんわな、無神経なんだから。
吉本つながりで書くが、トータルテンボスの大村さんがツイッターでこんなことを書いていた。
  • 「大阪出身のアメリカ人芸人『リー五世』が言っていた。『確かにアメリカ人がキャップとかタトゥーにチョイスする漢字一文字のセンスはおかしいよ! それは認める。ただ、日本人もカッコイイと思って着ている英語が書かれたTシャツの英文もたいがいやでー!』と。は、はあっ! そ、そうだったのか!」
そうなんですよ。そういうことなんですよ。
僕が肩に「愛生命」とか「頑」とか「自発性」とか「トマト」とか「牛」とか、頭になぜか「足」という文字を刺青で入れているのを見ると笑ってしまう(上記は実際にヤフー画像で見つけたもの)のと同じ目で、我々のウソ英語Tシャツも見られているのだ。
日本語に訳すなら「今日は天気がいいから、散歩に行こう。雲は友達。イヌ大好き」みたいな、どーっでもいいふわっふわポエムをわざわざ胸に刷って主張することもないし、「ウチカリフォルニアカラキタベサ。ミテケロ。オーイエー。パーティースッペ」みたいなよーわからんテンションのメッセージに映っている可能性がある。おかしいのである。
おかしい=笑える、ならまだいいが、ザンネンな気持ちにさせるではないか。
やはり、こんな極東の島国を遥々訪ねてくれた外国人をザンネンな気持ちにさせるのは控えたいところだ。「やっぱりわかってないのね」感(註)が伝わってしまうと、見下されると思うしね。
  • 註釈:
  • ブランド物が冗談かと思うくらい似合ってないチャイナのおっさんを見た時、マヨネーズでベトベトのスシロールを食べてるアメリカ人をテレビで見た時、脚に向かってタックルで突っ込むロシア人ジュードーカを見た時(最近反則になった)、初めて「ベストキッド2」を見た時、僕らの心の中に沸き上がるあの感情、残念と羞恥と諦念の入り混じったあの気持ち、それが「やっぱりわかってないのね感」だ。
外国の店に、日本語で「イチパイタダ」と書いてあっても、怪しくて(どっちのパイか不明で)一杯やりに行く気にならなかったり、「ヤヌイ! オメク!」と表記して「安い! お得!」をアピールされても、全く信用できないのと同じで、ちゃんとした言語の使用はその国や人の信頼につながるはずなのだ。
いや、ブロークンな英語で会話したり、身振り手振りでコミュニケーションするのは構わないし、僕も正確な英語は話せない。しかし、準備して調べればわかる範囲ならそうしたい。
英語を公用語になんかする必要はないし、遣わない人は遣わなくてよろしいのだ。でも、遣うなら正しく使えよ、と言いたい。せめて正しいのなら、知識として意味はあるが、日本語英語はクソの役にも立たない。
  • 「ザ・沖縄」という店を見かけた。
  • オキナワに「ザ」はいらん!
  • 「オ」キナワは母音だから、書くなら「ディ」もしくは「ジ」だ!
  • ジ・アルフィー」を知らんのか!
  • しかし、「アルフィー」ってなんや!
  • 造語に「ザ」も「ジ」も「ア」も「アン」もあるかい!
うーん、この国は手の施しようのないことになっている。
(了)

「みなさんの、心の中にあるのです」

ツタヤでDVDを選んでレジに持って行ったところ、店員がこう言う。
  • 「今、三本ですでに千円越えてしまっているのですが、キャンペーン中ですので、四本借りていただければ千円になりますよ」
そっか、そんならもう一本借りない手はない。しかし、一週間レンタルとは言え、二時間くらいかかる映画をそないポンポン観る時間があるはずもなく、もう一本借りるのはいいが、結局観られずに返す屈辱もありえる。
それに、すでに選んである作品は暗~いものばかりだから、それらを制覇して、さらにもう一本というのはかなりの気合いがいる。この三本だってあれこれかなりの選考を経て残ったものなので、いきなり敗者復活を告げられてもなー。
いや、あるではないか。興味ないところは早送りしながら観れて、事前の気合いが全く必要でないDVDが。
はい、こんな長い熟考の末、僕はツタヤの奥のカーテンをくぐって魅惑のゾーンへと歩を進めました。そして、今日無事に返却しましたので、奥さんにもバレることなく完全犯罪を成立させたのだ。普段、オナニー(=前立腺ガン予防体操)解放論を唱えている割りに、結構コソコソしているのが情けない。
  • 「あと一本、あと一本」と、「そないに借りる必要もないけど、こんな機会にしか観ないDVD」を探している最中に、頭をよぎったのが、邦画(どうせテレビですぐやるという気持ちがある)、アメリカの連続ドラマ(「24」など。ハマると次々借りなくてはならなくなるので避けている)、そしてホラーだ。
うーん、それでもホラーは見いひんな。一人で観るもんちゃうしな。
僕は映画には教訓を求めてしまうタイプなので、そこから何かを得たいと思ってしまう。しかし、ホラーにはそれは無理じゃないですか。
  • 「男女でちょっとエッチなハレンチ旅行に行く時にはジェイソンに気をつけよう」とか、「ビデオカメラ持って森に入る時には自分を写す際に鼻水が出ていないか気をつけよう」とか、ないじゃないですか。
そもそも幽霊ってもんを信じていない。当然霊感と呼ばれる能力もなくて、そんなもんなくてよかったと思う。ホテルで「うっ、この部屋、替えてください」とか面倒くさいし。もしも満室でその部屋しかなかったらどないしてその晩を過ごせばいいのかと思う。
僕は大槻教授ではないので科学的な云々はわからないけど、まず、以前に死んだ人が幽霊になって現れることができるのなら、この世は幽霊だらけで、しかもその数は年々増える一方ではないか。毎年人は死んでいくわけだから。累積されたら現世は何億どころか、何兆という数の霊で溢れ返ってしまわないのか。ほとんど富士山の山小屋状態で霊と雑魚寝していることになる。
その他にもおかしな点はいっぱいあって、目には見えないのに幽霊ってものが存在しているのなら、僕がこの前借りたAVを観ているシーンなんかもご先祖さまたちに見られていることになり、そんな恥ずかしいことってないではないか。
「そんなことより別のことをして子孫を残せぃ」と。
逆に、そんなことができるのなら、僕は死後、ラブホテルに張り込むし、ペネロペ・クルスのお風呂とかに通うもんね。死ぬのが楽しみになってくる。
そして、映画「ゴースト」のように壁は抜けられるとしたら、床も抜けてしまうので、二階以上の高いところにおちおち行けないではないか。横方向は自在だが、縦方向は人間と同じなんて都合が良すぎる。浮遊できるのだとすればめっちゃ楽しそうやんけ! 絶対グランドキャニオンとか行くもんね!
さらに死ぬのが楽しみになってくる。
まぁ、てな幼稚なことを日々考えていると、ホラー映画にお金を払うのはなんともバカらしく思えてしまう。
そして、死後の世界というものにも懐疑的なので、お墓についても考えることがある。
人間は死んだらモノ、焼いたら灰である、と僕は考えている。
いや、死者に対する敬意とか、祈りのような気持ちは持ち合わせている。だからこそ神社に行くし墓参りもする。
しかし、そこにあるのは生きている者の気持ちとか精神活動であって、死した者の魂というものがそこにあるとは僕は考えていない。そこにあるような気がしている生者がそこにいるだけである。そして、それでよいのだと思っている。生者がそういうふうに思っていることが大事なことなのである。
だから、お墓という象徴があろうがなかろうが、千の風になっていようが、どういうかたちでも構わないのだ。まさに心の中にあるのである。
みなさんおひとりおひとりの、心の中にあるのです。
オレ、将来坊さんになろうかな。憚りながら……。
自分については、子供もいないし、墓の世話をしてくれる人もいないので、死んだらどこかに散骨でいいと思っている。そのためには撒いてくれる妻や友人が必要だから、なんとか幸せな死に方はしたいと思っている。ミイラ状になって市役所のおっさんに発見されたり、どこかで土に還っているのに妻に年金だけは支給されているとか、遠い親戚に「そういえば百三十二才になるショータじいさんてのが関西にいるはずだ」なんて放置されるのはゴメンだ。
ところで、我が家のテレビがいきなり故障して、何日かテレビのない静かな暮らしをしている(壊れたのがDVD見終わってからでよかった……)。
僕は、本を読んだり、こうして文章を書いたりして過ごしている。
  • 「こういうのもいいね」と、妻に同意を求めたのだが、起きている間中テレビがついてないと気が済まない我が愚妻は、こう言う。
  • 「もう、気が狂いそう! テレビ大好き。私が死んだら、棺桶にテレビ入れてね」
フタ閉まらへんやろ。
(了)

「そんなことでやつらに勝てるんかい!」

去年大きな夏休みを取ってアメリカ横断をしてから、一年が経ってしまった。旅の最中には、いつまでも旅を続けたいと思ったし、こんな素晴らしい旅ができて、もう人生はいつ終わってもいいと思ったものだ。しかし、こうして一年何事もなく暮らしている。
それにしても、あれだけ旅をしても(十一日間)有給休暇というのは消化しきれるものではない。毎年半分も使わずに次の年度を迎える。
ここに、有給休暇取得日数の国際比較のデータがある。
  • フランス  34.7日
  • スペイン  28.6日
  • デンマーク 26.9日
  • イタリア  26.5日
  • ノルウェー 25.6日
  • イギリス  25.5日
  • ドイツ   25.5日
  • (中略)
  • アメリカ  14日
  • 日本    9.3日
  • (出典:エクスペディアジャパン)
「フランス人はひと月バケイションを取る」というまことしやかな噂はどうやら事実らしい。ちなみに有給休暇を使い切る労働者の割合は以下の通り。
  • フランス    89%
  • アルゼンチン  80%
  • ハンガリー   78%
  • 英国      77%
  • スペイン    77%
  • サウジアラビア 76%
  • ドイツ     75%
  • ベルギー    74%
  • (中略)
  • カナダ     58%
  • 米国      57%
  • 韓国      53%
  • オーストラリア 47%
  • 南アフリカ   47%
  • 日本      33%
  • (ロイター/イプソス調べ)
調査した中では日本は最下位である。つまり日本人は休暇も取らずに、ステレオタイプに違わぬ勤勉さで今日も働いているのだ。
そして、周知の通り年間のセックスの回数も世界最下位で(四十八回:デュレックス・セクシャル・ウェルビーイン グ・グローバル・サーベイ 二〇〇七より)、一体我々は何をしているのかと思う。
セックスする暇も惜しんで休まず働いて、それでいて経済は下降線、給料は上がらず、学生は就職できず、欧米諸国からは相変わらずナメられている。
まぁ、何をやっているって仕事をしているわけなんだけど、いい加減働き方を変えていかないとこの国は良くならないと心底思う。「良くなる」というのは幸せ指数の向上を指している。
ニッポン人は「不幸せ自慢」「寝てない自慢」「抱いてない自慢」が好きで、「自分は幸せである」ということを公言するだけで、「世の中には恵まれない人もいるのに!」などと、あらぬ批判さえ受けかねない。アホか。お前は朝日新聞か。
ここは、世界的に見ても誇るに足る素晴らしい国なんだぞ。どこでもコンビニがあって、安全で、女性がきれいで(日本人女性の外国での人気は抜群である)、水がきれいで。
僕は、毎日ごはんが三食食べられて、寝る場所があって、仕事があって、少ないながら友人がいるわけで、神様が出てきて「すまんが、お前の人生、これ以上なんもないで」と言われても、まぁ仕方ないかと思えるレベルには幸せである。それは否定できない。
人間の欲望は無限だから、そりゃ望めばキリがない。オープンカーにも乗りたいし、黒人ラッパーのようにプールサイドに美女を侍らせたいし、同時にカウボーイのように自然の中で暮らしたい。いや、現実的にも、もっといい仕事ができるようになりたいし、もっとマッチョになりたいし、将来に不安がなくなるくらいお金を貯めたい。
それでも現状においても「幸せである」と自己申告できる程度にはちゃんと人間的生活を送れているのである。多くの庶民がそのはずなのだ。そのことを堂々と言える国にしたいではないか。
そのためには仕事をしなくてはならないのだが、仕事だけしていてもダメなのだ。矛盾するがそうなのだ。
今でもニッポンのサラリーマンの間には「上司がまだ会社にいるから帰れない」みたいな風潮が残っているようで、信じがたいことだ。いや、僕だってヒトの子ですから、自分だけ会社でヒマで先輩や後輩が忙しそうにしていたら罪悪感は感じますよ。しかし、だからといって意味もなく夜まで会社に居残るかというと、それはしない。さっさと出て、ジムに行くなり買い物でもするなり家でごはんでも炊いて妻の帰りを待つなり、自分の精神衛生や人生を良好に保つためにするべきことはあるのだ。
やる時はやるし、やらない時はやらないのだ。
だって、それってカラ残業じゃん。あなたがそこに残って働くふりをしていることで会社からすれば残業代が発生しているわけだから、出費しているのだ。当然電気代もかかっている。残業代を出さない会社も多くあるらしいことは知っているが、そういう違法組織は論外とする。
日本の経営者はたいていコストの削減に必死で取り組んでいるはずだから、僕が経営側なら無駄な残業に払うお金はないと思うはずだ。
そして、無駄を省くのなら、日本のビジネスマンは意思決定のプロセスをはっきりと決めなくてはいけないと思う。
誰が、いつ、なにを、どういう順序で、なにを基準に、どこまで決定するというやり方をはっきりさせないまま仕事を進めるから、膨大な無駄が日本中で日々繰り返されているはずだ。ひとそれぞれ業種が違うから具体例で話せないのだけど、誰がどこまでの権限があるのかが非常に曖昧で、役員が「事務所のファイルの背表紙に貼るシールの向きを決めている」みたいなしょーもない決定をしている(権限を持っていると勘違いしている)ことが日本中であるはずなのだ。
主任が月曜日に「背表紙に貼るシールはタイトルを縦書きにするのか、横書きでいいのか」でワーワー言い出し、課長が「前例を調べると、アルファベット表記も多いので、一九九八年の例外を除いては横書きだ」という調査結果を水曜午前になってまとめ上げる。
で、横書きにしたらしたで、このシールをファイルの上部から貼るのか下部から貼るのか(その昔VHSで迷いませんでした?)わからなくなり、とりあえず木曜日一杯を使って上部から貼ることにする。なぜなら表紙を上に積み重ねた際に、シールのタイトルが上を向いて読みやすいからだ。
しかし、金曜日に役員に見せたら「シールの向きがおかしい」と言われ、主任が「いえ、積み重ねた時にですね……」と言いかけたところで課長が肘打ちをして制し、「そうですね、早急にやり直します!」と返事する。
で、部署みんなで金曜日の晩は残業である。
これがニッポンのサラリーマンの実態である。こういうことを、年間九日間しか有給休暇を取らずに、セックスは妄想の中だけでガマンし、メシは松屋で済ませ、電車の中で口を開けて寝ているところを向かいに立った学生に「シャリーン!」と写メされながら、続けているのである。
そんなことでおフランスに勝てるんかい!
あいつら全然働いてへんねんぞ! 三十何年生きてきて、メイド・イン・フランスのものなんて、グラスと百円ライターとワイン以外に見たことないんやぞ。
いつになったらヌーディストビーチで興奮することもなく、あたかも「このサングラスをしてれば、逆に服を着ているように見えるザマスの」みたいな落ち着き払った顔でヘミングウェイとか再読できるバケイションを楽しめるようになるんだい!
僕は思うんだけど、「仕事が趣味」と公言する雇われ人ほど、うさんくさくてハタ迷惑な存在はないのだ。そういう人に限って、ダラダラダラダラ仕事して「自分はこれだけ時間をかける情熱がある」と勘違いしている。再び僕が経営者なら、そんなやつに給料払わないよ。趣味でやりたきゃ独立せい。
「どこの世界に釣りに出かける度に出張手当が出るハマちゃんがおんねん」と言うと思う。
僕は仕事もきっちりやるけど、多彩な趣味を持っていて「へー、こんなこともされるんですか」という人が好きだ。
僕にもうちょっと勇気があれば、日本を変えていくために、最短距離で物事を決定して、その分の時間で有給休暇は全て消化して、休暇中は「裸に見える方のメガネ」をかけて世界中を歩き倒すと思うのだが、残念ながらそういうクールな人間は出世しないんだよな。
だから、この先も日本は変わらないようになっている。
厚生労働省、もっとがんばってや。
(了)